←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『法門申さるべき様の事』


(★427㌻)
 
 №0084
     法門申さるべき様の事   文永七年一二月  四九歳
 
  法門申さるべきやう。選択をばうちをきて、先づ法華経の第二の巻の今此三界の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了るべし。何れの仏か我等が父母にてはをはします。外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ。忠は又孝の家より出づとこそ申し候なれ。されば外典は内典の初門、此の心は内典にたがわず候か。人に尊卑上下はありというとも、親を孝するにはすぎずと定められたるか。釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土・日本にはわづかに五千七千余巻なり。此等の経々の次第勝劣等は、私には弁へがたう候。而るに論師・大師・先徳には末代の人の智慧こへがたければ、彼の人々の料簡を用ゆべきかのところに、華厳宗の五教四教、法相・三論の三時二蔵、或は三転法輪。「世尊法久後要当説真実」の文は又法華経より出でて候金口の明説なり。仏説すでに大いに分れて二途なり。譬へば世間の父母の譲りの前判・後判のごとし。はた又、世間の前判・後判は如来の金言をまなびたるか。孝不孝の根本は前判・後判の用・不用より事をこれり。かう立て申すならば人々さもやとをぼしめしたらん時申すべし。
  抑浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり。世尊は我等が慈父として末顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は、かの四十余年の経々に付けとをぼしめしゝか、又説真実の言にうつれとをぼしめしゝか。心あらん人々御賢察候べきかとしばらくあぢわひて、よも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが、真実なる事をすてゝ末顕真実の不実なる事に付けとはをぼしめさじ。
 

平成新編御書 ―427㌻―

provided by