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『十章抄』


(★468㌻)
 譬へば如意宝珠の金銀等の財を備へたるが如し。
  念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず。譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。設ひ開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり、体内の実に及ばず。何に況んや当世に開会を心えたる智者も少なくこそをはせすらめ。設ひさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。又南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。当世に父母を殺す人よりも、謀反ををこす人よりも、天台・真言の学者といわれて善公が礼讃をうたい、然公が念仏をさえづる人々はをそろしく候なり。この文を止観よにあげさせ給ひて後、ふみのざの人にひろめてわたらせ給ふべし。止観よみあげさせ給はゞすみやかに御わたり候へ。
  沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切れん事かたしと存じて候ひしが、人ごとに問注は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに事切るべしともをぼへ候はず。少弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候とぞ、うけ給はり候。
  この事のび候わば問注はよきと御心え候へ。又いつにてもよも切れぬ事は候はじ。又切れずば日蓮が道理とこそ人々はをもひ候はんずらめ、くるしく候はず候。当時はことに天台・真言等の人々の多く来て候なり。事多き故に留め候ひ了んぬ。
 

平成新編御書 ―468㌻―

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