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『開目抄㊤』
(★542㌻)
当時の責めはたうべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり。
但し、世間の疑ひといゐ、自心の疑ひと申し、いかでか天扶け給はざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさるになりとも法華経の行者とがうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、其の義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし。
季札といゐし者は心のやくそくをたがへじと、王の重宝たる剣を徐君が塚にかく。王寿と云ひし人は河の水を飲みて金の鵞目を水に入れ、公演といゐし人は腹をさいて主君の肝を入る。此等は賢人なり、恩をほうずるなるべし。況んや舎利弗・迦葉等の大聖は、二百五十戒・三千の威儀一つもかけず、見思を断じ三界を離れたる聖人なり。梵帝・諸天の導師、一切衆生の眼目なり。而るに四十余年が間、永不成仏と嫌ひすてはてられてありしが、法華経の不死の良薬をなめて、焦種の生ひ、破石の合ひ、枯木の華菓なんどせるがごとく、仏になるべしと許されて、いまだ八相をとなえず、いかでか此の経の重恩をばほうぜざらん。若しほうぜずば、彼々の賢人にもをとりて、不知恩の畜生なるべし。毛宝が亀は、あをの恩をわすれず、昆明池の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にさゝげたり。畜生すら猶恩をほうず。何に況んや大聖をや。阿難尊者は斛飯王の次男、羅・羅尊者は浄飯王の孫なり。人中に家高き上、証果の身となって成仏ををさへられたりしに、八年の霊山の席にて、山海慧・蹈七宝華なんど如来の号をさづけられ給ふ。若し法華経ましまさずば、いかにいえたかく大聖なりとも、誰か恭敬したてまつるべき。夏の桀、殷の紂と申すは万乗の主、土民の帰依なり。しかれども政あしくして世をほろぼせしかば、今にわるきものゝ手本には、桀紂桀紂とこそ申せ。下賤の者、癩病の者も桀紂のごとしといわれぬれば、のられたりと腹たつなり。千二百無量の声聞は、法華経ましまさずば、誰か名をもきくべき、其の音をも習ふべき。
平成新編御書 ―542㌻―
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