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『開目抄㊤』


(★567㌻)
 其の上日本国一同に、叡山の大師は受戒の師なり。何ぞ天魔のつける法然に心をよせ、我が剃頭の師をなげすつるや。法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる。人の理をかくせる者なり。第二の悪世中比丘と指さるゝは、法然等の無戒邪見の者なり。涅槃経に云はく「我等悉く邪見の人と名づく」等云云。妙楽云はく「自ら三教を指して皆邪見と名づく」等云云。止観に云はく「大経に云はく、此れよりの前は、我等皆邪見の人と名づくるなり。邪、豈悪に非ずや」等云云。弘決に云はく「邪は即ち是れ悪なり。是の故に当に知るべし、唯円を善と為す。復二意有り。一には順を以て善と為し、背を以て悪と為す。相待の意なり。著するを以て悪と為し、達するを以て善と為す。相待・絶待倶に須く悪を離るべし。円に著する尚悪なり、況んや復余をや」等云云。外道の善悪は、小乗経に対すれば皆悪道、小乗の善道乃至四味三経は、法華経に対すれば皆邪悪、但法華のみ正善なり。爾前の円は相待妙。絶待妙に対すれば猶悪なり。前三教に摂すれば猶悪道なり。爾前のごとく彼の経の極理を行ずる猶悪道なり。況んや観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として、法華経を観経に取り入れて、還って念仏に対して閣抛閉捨せるは、法然並びに所化の弟子等、檀那等は、誹謗正法の者にあらずや。釈迦・多宝・十方の諸仏は「法をして久しく住せしめんが故に、此に来至したまへり」と。法然並びに日本国の念仏者等は、法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと、豈三聖の怨敵にあらずや。
  第三は法華経に云はく「或は阿練若に有り、納衣にして空閑に在って、乃至、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるゝことを為ること、六通の羅漢の如くならん」等云云。六巻の般泥・経に云はく「羅漢に似たる一闡提有って悪業を行じ、一闡提に似たる阿羅漢あって慈心を作さん。羅漢に似たる一闡提有りとは、是諸の衆生の方等を誹謗するなり。一闡提に似たる阿羅漢とは、声聞を毀呰して広く方等を説き、衆生に語って言はく、我汝等と倶に是菩薩なり。所以は何。一切皆如来の性有るが故に。然も彼の衆生は一闡提と謂はん」等云云。涅槃経に云はく
 

平成新編御書 ―567㌻―

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