←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『祈祷抄』


(★628㌻)
 釈迦如来と悟り等しく須弥山の頂に登りて四方を見しが如く、長夜に日輪の出でたらんが如く、あかなくならせ給ひたりしかば、仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ、又行者に替はらじとは、おぼしめすべからず。
 されば「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」「身命を惜しまず」「当に広く此の経を説くべし」等とこそ誓ひし給ひしか。其の上慈父の釈迦仏、悲母の多宝仏、慈悲の父母等、同じく助証の十方の諸仏、一座に列ならせ給ひて、月と月とを集めたるが如く、日と日とを並べたるが如くましましゝ時「諸の大衆に告ぐ、我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せんものなる。今仏前に於て自ら誓言を説け」と三度まで諌めさせ給ひしに、八方四百万億那由他の国土に充満せさせ給ひし諸大菩薩、身を曲げ、低頭合掌し、倶に同時に声をあげて「世尊の勅の如く当に具に奉行したてまつるべし」と三度まで声を惜しまずよばわりしかば、いかでか法華経の行者にはかはらせ給はざるべき。
  はんよきと云ひしものけいかに頭を取らせ、きさつと云ひしもの徐の君が塚に刀をかけし、約束を違へじがためなり。此等は震旦辺土のえびすの如くなるものどもだにも、友の約束に命をも亡ぼし、身に代へて思ふ刀をも塚に懸くるぞかし。まして諸大菩薩は本より大悲代受苦の誓ひ深し。仏の御諌めなしともいかでか法華経の行者を捨て給ふべき。其の上我が成仏の経たる上、仏慇懃に諌め給ひしかば、仏前の御誓ひ丁寧なり。行者を助けたまふ事疑ふべからず。
  仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而も開導の師なり。父母なれども賤しき父母は主君の義をかねず。主君なれども父母ならざれば、おそろしき辺もあり。父母・主君なれども、師匠なる事はなし。諸仏は又世尊にてましませば、主君にてはましませども、娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず。又「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」とも名乗らせ給はず。釈迦仏独り主師親の三義をかね給へり。しかれども四十余年の間は提婆達多を罵り給ひ、諸の声聞をそしり、菩薩の果分の法門を惜しみ給ひしかば、仏なれどもよりよりは天魔波旬ばしの我等をなやますかの疑ひ、
 

平成新編御書 ―628㌻―

provided by