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『祈祷抄』


(★631㌻)
 多く大事のいのりをなすに、はかばかしくいみじきいのりありともみえず。尚外典の者どもよりも、つたなきやうにうちおぼへて見ゆるなり。恐らくは経文のそらごとなるか、行者のをこなひのおろかなるか、時機のかなはざるかとうたがはれて後生もいかんとをぼう。
  それはさておきぬ。御房は山僧の御弟子とうけ給はる。父の罪は子にかゝり、師の罪は弟子にかゝるとうけ給はる。叡山の僧徒の園城山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせ給ふが、ことにおそろしく、世間の人々もさわぎうとみあへるはいかに。前にも少々うけ給はり候ひぬれども、今度くわしくきゝひらき候はん。但し不審なることは、かゝる悪僧どもなれば、三宝の御意にもかなはず、天地にもうけられ給はずして、祈りも叶はざるやらんとをぼへ候はいかに。答へて云はく、せんぜんも少々申しぬれども、今度又あらあら申すべし。日本国にをいては此の事大切なり。これを知らざる故に多くの人、口に罪業をつくる。先づ山門はじまりし事は此の国に仏法渡りて二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給ひしなり。当時の京都は昔聖徳太子、王の気ありと相し給ひしかども、天台宗の渡らん時を待ち給ひし間、都をたて給はず。又上宮太子の記に云はく「我が滅度二百余年に仏法日本に弘まるべし」云云。伝教大師、延暦年中に叡山を立て給ふ。桓武天皇は平の京都をたて給ひき。太子の記文たがはざる故なり。されば山門と王家とは松と柏とのごとし、蘭と芝とににたり。松かるれば必ず柏かれ、らんしぼめば又しばしぼむ。王法の栄へは山の悦び、王位の衰へは山の歎きと見えしに、既に世関東に移りし事なにとか思し食しけん。
  秘法四十一人の行者、承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時、関東調伏の為、隠岐法皇の宣旨に依って始めて行はれし御修法十五壇の秘法
 一字金輪法 天台座主慈円僧正。伴僧十二口。関白殿基通の御沙汰。
 

平成新編御書 ―631㌻―

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