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『如説修行抄』


(★671㌻)
 かゝる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不祥なれども、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし、忍辱の鎧を著て妙教の剣をひっさげ、一部八巻の肝心妙法五字のはたを指し上げて、未顕真実の弓をはり、正直捨権の箭をはげて、大白牛車に打ち乗って権門をかっぱと破り、かしこへをしかけこゝへをしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに、或はにげ、或はひきしりぞき、或は生け取りにせられし者は我が弟子となる。域はせめ返し、せめをとしすれども、敵は多勢なり、法王の一人は無勢なり、今に至るまで軍やむ事なし。法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。
  問うて云はく、如説修行の行者と申し候は何様に信ずるを申し候べきや。答へて云はく、当世日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば、何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱ふるも、皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云はれ候なり等云云。予が云はく、然らず。所詮仏法を修行せんには人の言を用ふべからず、只仰いで仏の金言をまぼるべきなり。我等が本師釈迦如来、初成道の始めより法華を説かんと思し食ししかども、衆生の機根未熟なりしかば、先づ権教たる方便を四十余年が間説きて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり。此の経の序分無量義経にして、権実二教のはうじを指して方便と真実を分け給へり。所謂「以方便力、四十余年、未顕真実」是なり。大荘厳等の八万の大士、施権・開権・
 

平成新編御書 ―671㌻―

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