←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『法蓮抄』


(★813㌻)
 無間地獄の大苦をまぬがれ四十年の寿命延びたりき。又耆婆大臣も御つかひなりしかば、炎の中に入って瞻婆長者が子を取り出だしたりき。之を以て之を思ふに、一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人・女人なりとも成仏得道疑ひ無し。提婆には三十相あり。二相かけたり。所謂白毫と千輻輪となり。仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思ひぬべしとて、蛍火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ、千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼けて大事になり、結句死せんとせしかば仏に申す。仏御手を以てなで給ひしかば苦痛さりき。こゝにて改悔あるべきかと思ひしに、さはなくして瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり、又術にて有るなど云ひしなり。かゝる敵にも仏は怨をなし給はず。何に況んや仏を一度も信じ奉る者をば争でか捨て給ふべきや。
  かゝる仏なれば木像・画像にうつし奉るに、優填大王の木像は歩みをなし、摩騰の画像は一切経を説き給ふ。是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔にあて、頭を低れて他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ飢ゑて食を思ふがごとく、間無く供養し奉る功徳よりも、戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。十号と申すは仏の十の御名なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかゝれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。已上。
  上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。争でか仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。而れども此を妄語といはんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりてあら馬を走らするが如し。
 

平成新編御書 ―813㌻―

provided by