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『妙密上人御消息』


(★966㌻)
 摩騰迦・竺法蘭・羅什三蔵・南岳・天台・妙楽等、或は疏を作り、或は経を釈せしかども、いまだ法華経の題目をば弥陀の名号の如く勧められず。唯自身一人計り唱へ、或は経を講ずる時講師計り唱ふる事あり。然るに八宗九宗等、其の義まちまちなれども、多分は弥陀の名号、次には観音の名号、次には釈迦仏の名号、次には大日・薬師等の名号をば唱へ給へる高祖先徳等はおはすれども、何なる故有ってか、一代諸教の肝心たる法華経の題目をば唱へざりけん。其の故を能く能く尋ね習ひ給ふべし。譬へば大医の一切の病の根源、薬の浅深は弁へたれども、故なく大事の薬をつかふ事なく病に随ふが如し。
  されば仏の滅後、正像二千年の間は煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか。今末法に入りぬ。人毎に重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し。又月はいみじけれども、秋にあらざれば光を惜しむ。花は目出たけれども、春にあらざればさかず。一切時による事なり。されば正像二千年の間は題目の流布の時に当たらざるか。又仏教を弘むるは仏の御使ひなり。随って仏の弟子の譲りを得る事各別なり。正法千年に出でし論師、像法千年に出ずる人師等は、多くは小乗・権大乗・法華経の或は迹門、或は枝葉を譲られし人々なり。いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩、世に出現し給はず。此の人末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中、国ごと人ごとに弘むべし。例せば当時日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか。
  然るに日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。持戒破戒にも欠けて無戒の僧、有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり。何にしてか申し初めけん。上行菩薩の出現して弘めさせ給ふべき妙法蓮華経の五字を、先立ちてねごとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初めて候ひし程に唱ふるなり。所詮よき事にや候らん、又悪事にや侍るらん、我もしらず人もわきまへがたきか。但し法華経を開きて拝し奉るに、
 

平成新編御書 ―966㌻―

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