←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『神国王御書』


(★1298㌻)
 叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくといゝしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。
  同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐、漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。此の人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、又東寺の真言をも習ひ給へり。其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の[法]華・真言の元祖智証大師此なり。已上四大師なり。
  総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は太政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年乙巳三月廿四日八島にして海中に崩じ給ひき。此の王は源頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐法皇と申す。高倉の第三王子、文治元年丙午御即位。八十三代には阿波院、隠岐法皇の長子、建仁二年に位に継き給ふ。八十四代には佐渡院、隠岐法皇の第二王子、承久三年辛巳二月廿六日に王位につき給ひ、同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二・三・四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へるなり。
  此に日蓮大いに疑って云はく、仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ。須臾も相背かば梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり落ち給ふべし。神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う。
 

平成新編御書 ―1298㌻―

provided by