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『法華初心成仏抄』


(★1309㌻)
 各々我慢を立て、互ひに偏執を作す。何れか釈迦仏の御本意なるや。答へて云はく、宗々各別に我が経こそすぐれたれ、余経は劣れりと云ひて、我が宗吉しと云ふ事は唯是人師の言にて仏説にあらず。但し法華経計りこそ、仏五味の譬へを説きて五時の教に当てゝ、此の経の勝れたる由を説き、或は又已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云ふ事は正しき仏の金言なり。然るに我が経は法華経に勝れたり、我が宗は法華宗に勝れたりと云はん人は、下﨟が上﨟を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云はんが如し。何ぞ大罪に行なはれざらんや。法華経より余経を下す事は人師の言にあらず、経文分明なり。譬へば国王の万人に勝れたりと名乗り、侍の凡下を下﨟と云はんに、何の禍かあるべきや。此の経は是仏の御本意なり。天台・妙楽の正意なり。
  問うて云はく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種々なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり。人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも「雖示種々道、其実為仏乗」と云ふも「正直捨方便、但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞってあはれ然るべき道理かななんど思へり。如何心うべきや。若し爾らば大乗小乗の差別もなく、権教実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや。甚だいぶかし、いぶかし。答へて云はく、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども、衆生の機縁万差にしてとゝのをらざりしかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおゝせて、最後に此の妙法を説き給ふ。故に「若し但仏乗を讃せば衆生苦に没在し、是の法を信ずること能はず。法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕ちん」と説き、「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし」とも云へり。此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども、
 

平成新編御書 ―1309㌻―

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