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『法華初心成仏抄』


(★1318㌻)
 女人の身と生まれざるを一の楽みといへり。
  加様に内典外典にも嫌はれたる女人の身なれども、此の経を読まねどもかゝねども身と口と意とにうけ持ちて、殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の竜女・憍曇弥・耶輸陀羅女の如くにやすやすと仏になるべしと云ふ経文なり。又安楽世界と云ふは一切の浄土をば皆安楽と説くなり。又阿弥陀と云ふも観経の阿弥陀にはあらず。所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀、四十八願の主、十劫成道の仏なり。法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて、法華経大願の主の仏なり。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり。随って釈にも「須く更に観経等を指すべからざるなり」と釈し給へり。
  問うて云はく、経に「難解難入」と云へり。世間の人此の文を引きて、法華経は機に叶はずと申し候は、道理と覚え候は如何。答へて云はく、謂れなき事なり。其の故は此の経を能くも心えぬ人の云ふ事なり。法華より已前の経は解り難く入り難し、法華の座に来たりては解り易く入り易しと云ふ事なり。されば妙楽大師の御釈に云はく「法華已前は不了義なるが故に、故に難解と云ふ。即ち今の教には咸く皆実に入るを指す。故に易知と云ふ」文。此の文の心は、法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来たりては機賢く成りて解り易く入り易しと釈し給へり。其の上難解難入と説かれたる経が機に叶はずば、先づ念仏を捨てさせ給ふべきなり。其の故は双観経に「難きが中の難き、此の難きに過ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云へり。文の心は、此の経を受け持たん事は難きが中の難きなり、此に過ぎたる難きはなし、難信の法なりと見えたり。
  問うて云はく、経文に「四十余年未だ真実を顕はさず」と云ひ、又「無量無辺不可思議阿僧劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり。此の文は何体の事にて候や。答へて云はく、
 

平成新編御書 ―1318㌻―

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