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『法華初心成仏抄』


(★1320㌻)
 なさけなくあだむ者なり。二には出家の人なり。此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて、法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ賤しみ、犬野干よりもわろきやうを人に云ひうとめ、法華経をば我一人心得たりと思ふ者なり。三には阿練若の僧なり。此の僧は極めて貴き相を形に顕はし、三衣一鉢を帯して山林の閑かなる所に篭り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云はく、大愚癡の者大邪見の者なり、総て慈悲なき者の外道の法を説くなんど云はん。上一人より仰いで信を取らせ給はゞ其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし。法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。
  問うて云はく、仏の名号を持つ様に、法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや、如何。答へて云はく、経に云はく「仏諸の羅刹女に告げたまはく、善きかな善きかな、汝等但能く法華の名を受持する者を擁護せん福量るべからず」云云。此の文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給へるを、大覚世尊讃めて言はく、善きかな善きかな、汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたくめでたき功徳なり、神妙なり、と仰せられたる文なり。是我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云ふ文なり。凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舍利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と、三世諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。譬へば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。
 

平成新編御書 ―1320㌻―

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