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『三世諸仏総勘文教相廃立』


(★1416㌻)
 迹の成道を唱へて生死の夢中にして本覚の寤を説きたまふなり。智慧を父に譬へ、愚癡を子に譬へて是くの如く説き給へるなり。衆生は本覚の十如是なりと雖も、一念の無明眠りの如く心を覆ひ、生死の夢に入りて本覚の理を忘る。髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり。仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入りて衆生を驚かし給へる智慧は、夢の中にての父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。此の道理を以て悉是吾子と言ふなり。此の理を思ひ解けば、諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性は本末是同じ。斯れに由りて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚して本覚の寤に還るを即身成仏と云ふ。即身成仏は今我が身の上の天性地体なり。煩ひも無く障りも無き衆生の運命なり。果報なり冥加なり。
  夫以れば夢の時の心を迷ひに譬へ、寤の時の心を悟りに譬ふ。之を以て一代聖教を覚悟するに、跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成りて驚きぬれば、我が身も家も臥所も一所にて異ならず。夢の虚と寤の実との二事を目にも見、心にも思へども、所も只一所なり、身も只一身にて二の虚と実との事有り。之を以て知るべし、九界の生死の夢見る我が心も、仏界常住の寤の心も異ならず。九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変はらず、心法も替はらず、在所も差はざれども夢は皆虚事なり、寤は皆実事なり。止観に云はく「昔荘周といふもの有り、夢に胡蝶と成りて一百年を経たり。苦は多く楽は少なく、汗水と成りて驚きぬれば胡蝶にも成らず、百年をも経ず、苦も無く楽も無く皆虚事なり、皆妄想なり」已上取意。弘決に云はく「無明は夢の蝶の如く、三千は百年の如し。一念実無きは猶蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと年を積むに非ざるが如し」已上。此の釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず。寤に蝶と成らずと思ふ時も別の荘周なし。我が身を生死の凡夫なりと思ふ時は、夢に蝶と成るが如く僻目僻思ひなり。我が身は本覚の如来なりと思ふ時は本の荘周なるが如し。即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云ふには非ざるなり。蝶と思ふは虚事なれば成仏の言無し。沙汰の外の事なり。
 

平成新編御書 ―1416㌻―

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