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『本門戒体抄』


(★1439㌻)
 等覚已下の生身の四依の菩薩等を以て全く伝受戒師に用ふべからず。受戒には必ず三師一証一伴なり。已上五人なり。三師とは一は生身の和尚は霊山浄土の釈迦牟尼如来なり。響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、法華経の戒を自誓受戒する時必ず来たり給ふなり。然れば則ち何ぞ生身の釈迦牟尼如来を捨てゝ更に等覚の元品未断の四依等を用ゐんや。若し円教の四依有らば伝戒の為に之を請ずべし、伝受戒の為には之を用ふべからず。
  疑って云はく、小乗の戒、梵網の戒に何ぞ生身の如来来たらざるや。答へて云はく、小乗の釈迦は灰身滅智の仏なり、生身既に破れたり。譬へば水瓶に清水を入れて他の全瓶に移すが如し、本瓶は既に破れぬ。小乗の釈迦は五分法身の水を以て迦葉・阿難等の全瓶に移して、仏既に灰断に入り了んぬ。乃至仏・四果・初果・四善根・三賢及以博地の凡夫、二千二百余年の間、次の瓶に五分法身の水を移せば前瓶は即ち破壊す。是くの如く展転するの程に、凡夫の土器の瓶に此の五分法身の水を移せば、未だ他瓶に移さゞるの前に五分法身の水漏失す。更に何れの水を以てか他の瓶に移さんや。小乗の戒体も亦復是くの如し。正像既に尽きぬ。末法の濁乱には有名無実なり。二百五十戒の僧等は、但土器の瓶のみ有りて全く五分法身の水無きなり。是くの如き僧等は、形は沙門に似れども戒体無きが故に天之を護らず。唯悪行のみを好みて愚人を誑惑するなり。
  梵網大乗の戒は、譬へば金銀の瓶に仏性法身の清水を入れて亦金銀の瓶に移すが如し。終には破壊すべしと雖も瓦器土器に勝れて其の用強し。故に小乗の二百五十戒の僧の持戒よりも、梵網大乗の破戒の僧は国の依怙と為る。然りと雖も此の戒も終に漏失すべきものなり。
  普賢経の戒は、正像末の三時に亘って生身の釈迦如来を以て戒師と為す。故に等覚已下の聖凡の師を用ゐざるなり。小乗の劣応身、通教の勝応身、別教の台上の盧遮那、爾前の円教の虚空為座の毘盧遮那仏、猶以て之を用ゐず。何に況んや其の已下の菩薩・声聞・凡夫等の師をや。但法華迹門の四教開会の釈迦如来、
 

平成新編御書 ―1439㌻―

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