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『白米一俵御書』
(★1544㌻)
№0440
白米一俵御書 弘安三年 五九歳
白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいをもってわざわざをくられて候。
人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。経に云はく「有情は食に依って住す」と云云。文の心は、生ある者は衣と食とによって世にすむと申す心なり。魚は水にすむ、水を宅とす。木は地の上にをいて候、地を財とす。人は食によって生あり、食を財とす。いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてゝ候財もいのちにはかへぬ事に候なり。さればいのちはともしびのごとし。食はあぶらのごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。一切のかみ仏をうやまいたてまつる始めの句には、南無と申す文字ををき候なり。南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。我が身には分に随ひて妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、また財なき人々もあり。財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。
いわゆる雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならへり。薬王菩薩と申せし人は、臂をやいて法華経に奉る。我が朝にも聖徳太子と申せし人は、手の皮をはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は、無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。此等は賢人聖人の事なれば我等は叶ひがたき事にて候。
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、
平成新編御書 ―1544㌻―
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