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『就註法華経口伝』


(★1778㌻)
  御義口伝に云はく、礼拝とは合掌なり、合掌とは法華経なり。此即ち一念三千なり。故に不専読誦経典但行礼拝と云ふなり。
    第七 乃至遠見の事
  御義口伝に云はく、上の凡有所見の見は内証所具の仏性を見るなり、此は理なり。遠見の見は四衆と云ふ間、事なり。仍って上は心法を見、今は色法を見る。色法は本門開悟の四一開会なり。心法を見るは迹門の意、又四一開会なり。遠の一字は寿量品の久遠なり。故に故往礼拝と云へり云云。
    第八 心不浄者の事
  御義口伝に云はく、謗法の者は色心二法共に不浄なり。先づ心不浄の文は今の此の心不浄者なり。又身不浄の文は譬喩品に「身常臭処垢穢不浄」と云へり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は色心共に清浄なり。身浄とは法師功徳品に云ふ「若持法華経其身甚清浄」の文なり。心浄とは提婆品に云はく「浄心信敬」云云。浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり云云。
    第九 言是無智比丘の事
  御義口伝に云はく、此の文は法華経の明文なり。上慢の四衆不軽菩薩を無智の比丘と罵詈せり。凡有所見の菩薩を無智と云ふ事、第六天の魔王の所為なり。末法に入って日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、無智の比丘と謗ぜられん事、経文の明鏡なり。無智を以て法華経の機と定めたり。
    第十 聞其所説皆信伏随従の事
  御義口伝に云はく、聞とは名字即なり、所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり、信とは無疑曰信明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。
 

平成新編御書 ―1778㌻―

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