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大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす


     

―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会―



大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会
amazonでも売っています。
定価三〇〇円
日蓮正宗宗務院 編集

  はじめに


 今般、創価学会は会則を改変し、その説明として聖教新聞紙上に「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と発表しました。

 これは、創価学会の前身である創価教育学会が昭和五(一九三〇)年に設立されて以来、八十数年にわたって会員が等しく信仰の対境として尊崇してきた宗祖日蓮大聖人弘安二年十月十二日所顕の本門戒壇の大御本尊を放棄することを意味します。
 信仰の世界において、礼拝の対象となる本尊は最も重視されなければなりません。
 今回、創価学会が行った本尊義の改変は、教団の存立基盤を揺るがし、八十数年の歴史を覆す大事件です。
 日蓮大聖人を御本仏と立てながら、大聖人出世の本懐たる大御本尊を放棄するという致命的な過ちを犯した創価学会は、それを繕うため、いくつかの異説を唱えざるをえない状態に至りました。
 まさしく創価学会は、はてしない矛盾のスパイラル(らせん状の進行)におちいったと言えましょう。
 本書は、創価学会首脳部に誑惑される学会員を目覚めさせるため、会則を改変したことに伴う創価学会の本尊義と、それを言い繕うための邪説を破折するものです。
 本書によって、迷える学会員が一人でも多く、本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺の正法に帰依することを祈ってやみません。
         日蓮正宗宗務院

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目次



はじめに………………………………………………2
第一章 「大御本尊は受持の対象にはしない」との邪義を破す………………………………………………9
 第一節 今回の会則改変について………………………………………………9
 第二節 日蓮大聖人の出世の本懐を捨てる大罪………………………………………………10
 第三節 人法一箇(体一)の法義に背く大罪………………………………………………13
 第四節 御歴代上人の御指南に違背する大罪………………………………………………16
 日應上人  日亨上人  日開上人  日昇上人  日淳上人  日達上人
 第五節 歴代会長の指導との矛盾………………………………………………21
 第六節 教義・信仰基盤の崩壊………………………………………………23
第二章 大御本尊放棄を言い繕うための邪説を破す………………………………………………27
 第一節 「御本尊を創価学会が認定する」という邪説………………………………………………27
  ①凡夫集団に御本尊を認定する資格はない………………………………………………27
  ②「創価学会は広宣流布を推進する仏意仏勅の教団」という妄言………………………………………………29
 第二節 創価学会の「三大秘法説」を破す………………………………………………32
  ①「三大秘法を信ずる」とは観念的信仰………………………………………………32
  ②一大秘法抜きの三大秘法は邪説………………………………………………33
  ③「文字曼荼羅は等しく本門の本尊」という邪義………………………………………………36
 第三節 「これまでの本尊観は世界広布を阻害する」との邪説………………………………………………38
  ①御遺命の戒壇を否定する大罪………………………………………………39
  ②根本の御本尊」と「御書写の御本尊」との立て分けを否定する大罪………………………………………………41
  ③「慈折広布の御本尊」 (創価学会常住御本尊)について………………………………………………45
 第四節 創価学会の信仰の誤り………………………………………………46
  ①正境なくして利益なし………………………………………………47
  ②言葉のみの広宣流布をかかげる創価学会………………………………………………48
第三章 「大石寺は謗法の地」との妄言を破す………………………………………………51
 第一節 総本山大石寺は最勝の地………………………………………………51
 第二節 日蓮大聖人以来の血脈は厳然………………………………………………55
第四章 会則改変の経緯………………………………………………57
 第一節 創価学会規則と創価学会会則の制定………………………………………………57
 第二節 「感情や歴史的な経過を踏まえ」との欺随………………………………………………59
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むすびに………………………………………………61
   日蓮正宗は日蓮人聖人の教えを正しく伝える唯一の教団………………………………………………61
   広宣流布に向かって大前進する日蓮正宗………………………………………………62
Q&A創価学会員の言い分に答える………………………………………………71
 一、創価学会の会則改変について………………………………………………75
 二、本門戒壇の大御本尊について………………………………………………78
 三、創価学会の活動方針について………………………………………………97
 四、創価学会の信仰と功徳について………………………………………………101
 五、池田名誉会長について………………………………………………109

付録I 創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集………………………………………………113
付録2 創価学会会則(抜粋)………………………………………………137
付録3 会則改変(平成26年)に関する原田会長の説明(抜粋)………………………………………………138
付録4 創価学会問題の略年表………………………………………………140
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引用文献略称
  御書-平成新編目蓮大聖人御書(大石寺版)
  法華経-新編妙法蓮華経並開結(大石寺版)
  歴全-日蓮正宗歴代法主全書
  六巻抄-六巻抄(大石寺版)
  文段-日寛上人御書文段(大石寺版)
  淳全-日淳上人全集(改訂分冊本)
  達全-日達上人全集
  大正蔵-大正新脩大蔵経
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第一章 「大御本尊は受持の対象にはしない」との邪義を破す


 第一節 今回の会則改変について


 創価学会は、従来の会則(平成十四年改変)のうち、教義条項にあたる、
「第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」 (聖教新聞・平成一四年四月一日付)
との条文を、今回の改変で、
「第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」 (本書137頁参照)
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としました。
 すなわち、信ずる対象について、それまでの条文にあった「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」の文言を「根本
の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」と変え、「大御本尊」という言葉を抹消しました。
 これをもって、会長の原田稔は、
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(本書139頁参照)
と宣言したのです。

[写真]聖教新聞該当箇所 したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定しだ御本尊であり、大法宝の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新晴代の時を仰えた今や将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。

第二節 日蓮大聖人の出世の本懐を捨てる大罪



 日蓮大聖人は、大御本尊を出世の本懐とされることについて『聖人御難事』に、
「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年雅なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」 (御書一三九六頁)
と仰せられ、弘安二年十月十二日に本門戒壇の大御本尊を図顕されました。
 この御文に示された大聖人の出世の本懐について、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「問う、弘安の御本尊、御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり(中略)吾が大聖人は文永十年四月一一十五日に当抄を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや」 (文段一九六頁)
と教示されています。
 これらの御文から、大聖人の出世の本懐は「弘安二年、御年五十八歳の十月十二日」に図顕された「戒壇の本尊」であることは明白です。
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 また、日寛上人が、
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段・文段一九七頁)
と教示されるように、この大御本尊こそが三大秘法随一の御本尊であり、末法の一切衆生が帰依すべき、究竟中の究竟たる御本尊なのです。
日昇上人宗旨建立七〇〇年お言葉

 現在、創価学会総本部に安置される通称「慈折広布の御本尊」を認められた第六十四世日昇上人も、
   「久遠本仏たる宗祖日蓮大聖人は南無妙法蓮華経をお唱へ出された年から二十七年即ち弘安二年に出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を一切衆生に総与遊ばされたのであります」
(大白蓮華・昭和二七年六月号四頁)
と明確に指南されています。
 今回、創価学会が、本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としないと宣言したことは、まさ
しく御本仏日蓮大聖人の出世の本懐を放棄したことになるのです。

 第三節 人法一箇(体一)の法義に背く大罪



 日蓮大聖人の仏法には「人法一箇(体一)」という法義があります。これは、人本尊と
法本尊が一体であるという意味です。
 人本尊と法本尊が一体であることについて、日寛上人は、
「本地難思の境智の冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。此の時、法を尋ぬれば人の外に別の法無し、人
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  の全体即ち法なり。此の時、人を尋ぬれば法の外に別の大無し、法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり」(観心本尊抄文段・文段二〇二頁)
と仰せられ、久遠元初の自受用身(人)と、事の一念三千の南無妙法蓮華経(法)が一体
である旨を指南されています。
 創価学会が編纂した『仏教哲学犬辞典』にも、「人法一箇」について、
「日蓮大聖人の仏法において、大本尊と法本尊は、その名は異なるが、その体は一つであること」 (該書第三版一三二〇頁)
と説明しています。
 すなわち人法一箇とは、「久遠元初の自受用身」たる末法の御本仏日蓮大聖人を大本尊とし、「本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経」を法本尊として、法即人、人即法の御本尊を指します。
 日寛上人は、
「本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊」 (当家三衣抄・六巻抄二二五頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊は事の一念三千の法であるとともに、「久遠元初の自受用報身如来の当体」すなわち末法の御本仏日蓮大聖人の御当体であることを説示されています。
 今回、創価学会は、人法一箇の大御本尊を信仰の対象から外しましたが、これを端的に言えば、日蓮大聖人の御当体であり御魂魄である大御本尊を放棄したということです。
 条文の上では「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」ながら、信仰の上では日蓮大聖人の御当体に手を合わせないというのですから、これほど道理に合わない話はありません。
 まさしく創価学会は救い難い矛盾のスパイラルにおちいったと同時に、自らの信仰を否定していると言うべきです。
当家三衣抄
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 第四節 御歴代上人の御指南に違背する大罪



 今回、創価学会が弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を放棄したことは、日蓮大
聖人の仏法に違背する大謗法に当たります。
 これについて御歴代上人の御指南を挙げ、創価学会の邪義を明らかにします。


○第二祖日興上人

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」 (日興跡条々事・御書一八八三頁)


○第十四世日主上人(戦国時代の混乱期に東北・関東の布教に努められ、福島県の本法寺などを建立された御法主上人)

「大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊(※譲座御本尊)法体御付嘱なり」(歴全一四五九頁)

○第二十六世日寛上人(創価学会が作製・販売する『ニセ本尊』のもととなった浄円寺所蔵の御本尊を認められた御法主上人)

「本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり」(観心本尊抄文段・文段二四三頁)
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日應上人 ○第五十六世日應上人(明治期の東京において自ら街頭布教に立ち、教線拡大に努められた御法主上人)


「戒壇本尊の造立は宗祖出世の本懐にして一期弘通の大事なり」(弁惑観心抄一九三頁)
日亨上人 〇第五十九世日亨上人『第二代戸田会長の請いによって『日蓮大聖人御書全集』を編纂された御法主上人)

「一期の弘法即三大秘法、三秘の中心即本門戒壇の大御本尊である」 (大白蓮華・昭和二八年九月号二六頁)
日開上人 ○第六十世日開上人(昭和三年六月の御登座。同月に牧口・戸田両会長が入信している。創価教育学会発足当時の御法主上人)

「吾が総本山に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖一期の大事、本門三大秘法の随一にて在すなり」
(日開上人全集二五三頁)

日昇上人 ○第六十四世日昇上人(創価学会総本部安置の「慈折広布の御本尊」を認められた御法主上人)

「夫れ戒壇の本尊は宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之れを建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に当て給るところなり」 (大日蓮・昭和三〇年一二月号一四頁)

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日淳上人
○第六十五世日淳上人(牧口・戸田両会長の指導教師であり、戸田会長の葬儀の大導師を勤められた御法主上人)

「吾が総本山大石寺に安置し奉る戒壇の大御本尊が大聖人の施化の究竟と拝さなければならない。若し此旨を失へば御一代の御示教は全く泡沫になって了ふのである」(淳全八二六頁)
日達上人 ○第六十六世日達上人(創価学会の法人設立に尽力し、創価学会の善導に心を砕かれた御法主上人)

「宗門の信仰の対象は、すなわち弘安二年、大聖人様のご本懐の戒壇の大御本尊様であります。そして、その大聖人様はこの戒壇の大御本尊様をご建立あそばされ、すなわち大聖人様即戒壇の大御本尊様であります」(達全ニ―六―二七三頁)


 これらの御指南を拝しても、創価学会の今回の大御本尊放棄が、日興上人をはじめとす
る御歴代上人の御意に違背していることは明らかです。

 第五節 歴代会長の指導との矛盾


 本来、創価学会は本門戒壇の大御本尊への信仰を世の中に弘めるための教団でした。次に挙げる、初代会長牧口常三郎氏、第二代会長戸田城聖氏、さらに、かつての池田大作の言葉がそれを明確に示しています。
牧口常三郎○初代牧口会長

「御本尊の中、総与の御本尊と称して、大石寺に伝へられる大御本尊を信じ奉る者が正しい信者である」(牧口常三郎全集一〇―一五一頁)

戸田城聖○第二代戸田会長

「もっとも完全無けつな仏法が正宗なのである(中略)私達は無智な人々を導びく車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くの
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が学会の唯一の使命である」(大白蓮華・昭和二四年二一月号一頁)
「現代に於ては時刻相応の教と云うならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずる事である。大聖人の御命たる大曼荼羅を信ずる事でありその大曼荼羅中の極説中の最極説たる弘安二年十月十二日御出現の総与の御本尊こそ真の民衆救済の御本体であらせられる」(大白蓮華・昭和二九年七月号巻頭言)
(→参考)

日達上人御開扉

○第三代池田大作
「大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります」 (会長講演集ニー五六頁)
 
 これら歴代会長の指導にもあるように、創価学会は大御本尊を信仰の根本としてきた教団です。
 今回、創価学会が行った大御本尊の放棄は、歴代会長の指導に背反し、八十数年にわたる創価学会の信仰を根底から覆すものです。
 会則改変の実質的責任者である池田大作に至っては、その自語相違は甚だしいものであり、牧口・戸田両会長の功績を無にする、不肖の弟子と言うほかはありません。

 第六節 教義・信仰基盤の崩壊



 創価学会は、日蓮正宗の信徒団体として発足した宗教法人です。
 第二代戸田会長は、創価学会が宗教法人を取得するに当たり、宗門に対して、
  一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
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  二、当山の教義を守ること
  三、三宝を守ること
との三原則の遵守を誓約し、昭和二十七(一九五二)年八月、東京都知事より宗教法人の認証を受けました。
 この三原則こそ、創価学会が存在しうる最も重要な基盤です。
 このうち、第二の「当山の教義」とは、日蓮正宗の教義にほかなりません。
 日蓮正宗の教義・信仰は、日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊を根本とするものです。
 また、第三の「三宝を守ること」とは、本宗の三宝、すなわち仏(日蓮大聖人)、法(本門戒壇の大御本尊)、僧(第二祖日興上人を随一とする歴代の法主上人)を信仰の根幹として尊崇するということです。
 日寛上人は『当家三衣抄』に、
「南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は(中略)南無日蓮大聖人師(中略)南無本門戒壇の大本尊(中略)南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」 (六巻抄二二五頁)
と、本宗の三宝について、明確に指南されています。
 かつて、戸田会長は、
「日蓮大聖人以来の正しい歴史と教義を、世に弘めるべく大いに努力しなければならない」 (戸田城聖全集六―四〇四頁)
と述べ、日蓮正宗の教義を遵守するよう指導していました。
 また、池田大作も会長就任式には、
「わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます」 (大白蓮華・昭和三五年六月号七頁)
と述べて、創価学会は日蓮正宗の教義を信奉する信徒団体であることを明言していました。
 にもかかわらず、今回、創価学会は、日蓮正宗の教義の根幹をなす本門戒壇の大御本尊への信仰を放棄しました。
 これは、法人設立の誓約のなかの、第二の「当山の教義を守る」との条項を破るととも
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に、第三の「三宝を守ること」の条項をも破る行為であり、創価学会はその存立基盤を自らの手で全面的に破壊したのです。
 まさに、創価学会は、教義の上でも信仰の上でも、はてしない矛盾のスパイラルにおちいった、というべきです。
嬉々として登山

第二章 大御本尊放棄を言い繕うための邪説を破す

 創価学会は、「大御本尊を受持の対象としない」と宣言したことで、それを言い繕うための邪説を次々と唱えざるをえない状態におちいっています。
 ここでは、そのいくつかについて破折します。

 第一節 「御本尊を創価学会が認定する」という邪説



  ①凡夫集団に御本尊を認定する資格はない

 今回、創価学会が大御本尊を放棄するに当たって、原田会長は、
「創価学会は(中略)広宣流布のための御本尊を認定します。したがって、会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり云々」(本書139頁参照)
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と述べ、今後は創価学会が受持の対象とすべき本尊を認定すると宣言しました。
 そもそも、日蓮大聖人の仏法における御本尊は、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書六八五頁)
と仰せられるように、御本仏の御魂魄であり、お悟りそのものです。
 仏法においては、
「信心は順従を義と為す」(四教義・大正蔵四六―七五三頁)
と言われるように、衆生は仏の教えに従い、本尊を尊崇することが本義です。
 末法の衆生が拝すべき御本尊について、日寛上人は、
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段・文段一九七頁)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊こそ、日蓮大聖人の仏法における根本の御本尊であると教示されています。
 すなわち本門戒壇の大御本尊は本宗における究極の御法体であり、古来、御本尊の書写
および下付に関する一切の権能は、血脈付法の御法主上人御一人に限られてきたのです。
 第二代戸田会長も、
「大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない」(大白蓮華・昭和三四年七月号九頁)
と指導しています。
 しかるに今回、創価学会は、衆生凡夫の集団にもかかわらず、宗祖大聖人の御教示、日寛上人の御指南、さらには戸田会長の指導に背いて、受持の対象とすべき御本尊を自ら認定するという大増上慢ぶりを露わにしました。
 いったい何を基準に認定するというのか、世迷い言もほどほどにすべきです。
  ②「創価学会は広宣流布を推進する仏意仏勅の教団」という妄言
 創価学会が御本尊を認定できる根拠について、原田会長は、
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「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します」(本書139頁参照)
と述べています。
 まず、創価学会は世界広宣流布を推進する教団、ということですが、そもそも広宣流布とは、総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を根本とする日蓮大聖人の教えを世に弘めて衆生を救うことです。
 そのためには、日蓮大聖人の教えに随順し、正しい信心に立たなければなりません。
 広宣流布の根源について、日寛上人は、
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや」(文底秘沈抄・六巻抄六八頁)
と、明確に指南されています。
根源とは大御本尊 また、第六十六世日達上人は、創価学会の教義逸脱が顕著になっていった昭和四十九年
に、
日達上人

「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷行していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。みなさまの今の時にもし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません」(達全ニー六-二九五頁)
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と指南されています。
 これらの御指南を拝しても、日蓮正宗の教義から外れた創価学会が「広宣流布を推進する教団」でないことは明らかです。
 また創価学会は「仏意仏勅の教団」ということですが、創価学会は御本仏の教えに背き、その御魂魂を放棄したのです。創価学会は「仏意仏勅」どころか、むしろ仏敵・大謗法の集団というべきでしょう。
 したがって、そのような創価学会が御本尊を勝手に認定するなどは、荒唐無稽としか言いようがありません。ちなみに「荒唐無稽」とは、よりどころがなく、デタラメなさまを言います。

 第二節 創価学会の「三大秘法説」を破す


  ①「三大秘法を信ずる」とは観念的信仰


 今回、創価学会は、会則の教義条項を、
「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え云々」(本書137頁参照・傍線筆者)
と改変しました。
 これは、これまでの会則の教義条項にあった、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」(傍線筆者)
との条文から「大御本尊を信受し」の文言を削除し、「三大秘法を信じ」と改変したものです。
 信仰の集団では、何を信ずるのかが最も重要なことです。
 今回、創価学会が具体的な信仰の対象である三大秘法総在の大御本尊を放棄し、名ばかりの三大秘法を信仰の対象としたことは、現実に存在する御本尊を離れ、観念的信仰におちたものと言えます。

  ②一大秘法抜きの三大秘法は邪説


 今回の会則改変は、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊を排除し、創価学会流の実体のない三大秘法を信仰の対象にすり替えたものです。
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 そもそも、日蓮大聖人の仏法において、三大秘法とは、
  本門の本尊………………………………………………大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊
  本門の戒壇………………………………………………本門の本尊を安置する所
  本門の題目………………………………………………本門の本尊を信じて唱える題目
であり、この三大秘法は、別個に存在するものではありません。
 日寛上人は『依義判文抄』に、
「三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(六巻抄八二頁)
と仰せです。
 すなわち、本門戒壇の大御本尊を開けば三大秘法となり、三大秘法を合すれば一大秘法の本門戒壇の大御本尊に納まります。このことをもって、本門戒壇の大御本尊を三大秘法総在の大御本尊と尊称するのです。
 したがって、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を離れて、三大秘法は成り立たないのです。

日昇上人
 さらに第六十四世日昇上人も、
「三大秘法と申しまするにその究竟の眼目は戒壇の大御本尊に帰着致すのでありまして即ち皆様が今日篤くと拝せられました当山に護持し奉る戒壇の大御本尊に帰するのであります」(大日蓮・昭和二九年五月号三頁)
と仰せられ、三大秘法は本門戒壇の大御本尊に帰着すると、明確に指南されています。
 ちなみに、創価学会発行の『折伏教典』には、
「三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人のお教えである」(該書改訂二三版三二九頁)
とあり、また『創価学会入門』にも、
「大聖人の仏法は三大秘法ですが、その根本は弘安二年十月十二日に御図顕された本
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門戒壇の大御本尊です。それは、本門の大御本尊に向かって唱える題目が本門の題目、本門の本尊を安置する所が本門の戒壇だからです」 (該書改訂版一〇〇頁)
とあります。
 これらの御指南と従来の創価学会の主張を見ても、現在の創価学会流の三大秘法説がいかに狂っているか明らかではありませんか。

  ③「文字曼荼羅は等しく本門の本尊」という邪義


 原田会長は、
「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』であります」 (本書138頁参照)
と述べています。
 つまり創価学会では、日蓮大聖人が図顕された大漫荼羅本尊とそれを書写した本尊は、すべて「等しく本門の本尊」であると定義しているのです。
 それでは、創価学会は身延をはじめ他門の寺院に蔵される大聖人直筆の御本尊や、他宗の僧侶が書写した本尊も「等しく本門の本尊」として認定するのでしょうか。
 日寛上人は、戒壇の大御本尊と他門流に伝えられる漫荼羅本尊との違いについて、
「『日興が身に宛て賜はる所の弘安二年の大本尊は、日目に之を授与す。本門寺に掛け奉るべし』云云。今四百余年に至る。他流は皆是れ似せ薬なるべし」(妙法曼陀羅供養抄記・文段七〇三頁・傍線筆者)
と仰せられ、大聖人直筆の御本尊であっても、本門戒壇の大御本尊につながる御本尊でなければすべて「似せ薬」であり、「本門の本尊」ではないと指南されています。
 また『折伏教典』にも、
「富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである」 (該書改訂二三版三一四頁)
とあり、さらに、
「日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である」 (同三二-頁)
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と明確に説明しています。
 これらのことからも、根本の御本尊である本門戒壇の大御本尊から離れた創価学会が、いかなる本尊を持ち出そうとも、それはすでに血脈の切れた、功徳のない本尊なのです。

 第三節 「これまでの本尊観は世界広布を阻害する」との邪説



 原田会長は、
「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも。”電源と端子”の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねない」(本書138頁参照)
と、これまでの本尊観は世界広布を阻害するという邪説を述べています。
 これについて、二つの点から破折を加えます。

  ①御遺命の戒壇を否定する大罪     


 まず初めに破折すべきは、御遺命の戒壇を否定していることです。
 大聖人は『三大秘法禀承事』に、
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ」 (御書一五九五頁)
と、「霊山浄土に似たらん最勝の地」に戒壇を建立すべきことを仰せられています。
 また『日蓮一期弘法付嘱書』には、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿開梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同一六七五頁)
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と、「本門寺の戒壇」を建立すべき最勝の
地は富士山であると教示されています。
 にもかかわらず創価学会は、「ある場所
に特定の戒壇があり云々」と述べて、大聖
人が遺命された戒壇を暗に否定しているの
です。
 日寛上人は、富士大石寺が「戒壇」の地
であることについて、
「一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり、未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も既に本門の戒壇の御本尊在す上は其の住処は即戒壇なり」(寿量演説抄・歴全四―一四五頁)
と記されています。
 すなわち、本門戒壇の大御本尊まします大石寺が「戒壇」であり、創価学会がいう「特定の戒壇」に当たることは明白です。
 これらのことから、創価学会が「特定の戒壇」を否定することは、大聖人の御遺命に違背し、日寛上人の御指南に反する大謗法なのです。
戒壇の大御本尊在す霊地・大石寺

  ②「根本の御本尊」と「御書写の御本尊」との立て分けを否定する大罪


 次に、原田会長は、
「特定の戒壇に安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという本尊観は世界広布を阻害する」(取音・本書138頁参照)
と言っています。
 ここで創価学会は、本宗本来の教義である、宗祖直筆の漫荼羅御本尊や御歴代上人の御書写による御本尊は、すべて本門戒壇の大御本尊を根本としなければならないという鉄則
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を、真っ向から否定したのです。
 創価学会は、平成三(一九九一)年に宗門から破門されて以来、さまざまな異説・邪説を唱えてきましたが、本尊義に関しては従来どおり、本門戒壇の大御本尊を根本の御本尊としてきました。しかるに今回、初めて根本の御本尊と御書写の御本尊との立て分けを否定し、暗に本門戒壇の大御本尊が根本の御本尊ではないと表明したのです。
 日寛上人は、本門戒壇の大御本尊と御歴代上人御書写の御本尊との関係について、次のように指南されています。
「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(法華取要抄文段・文段五四三頁)
 すなわち、広宣流布の暁には一閻浮提の寺々に御歴代上人御書写の御本尊が安置される
が、これらの御本尊は根源の御本尊に対する枝流の御本尊であり、その場所は義理の戒壇に当たる。これに対し、根源の御本尊は本門戒壇の大御本尊であり、その所住の処が事の戒壇に当たる、との文意です。
 この御指南からも、根本の御本尊と御書写の御本尊の立て分けを否定する創価学会の言い分か大謗法であることは明らかです。
 さらに、原田会長は、
「あたかも”電源と端子”の関係であるかのような本尊観は(中略)かえって世界広布を阻害するものとなりかねない」 (本書138頁参照)
とも言っています。
 しかし、創価学会発行の『折伏教典』には、似たような譬えを用いて、次のように説明
しています。
「電灯にたとえて考えてみると(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」 (該書改訂二三版三一三頁)
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日達上人また、第六十六世日達上人は、
「戒壇の御本尊の、又、写しが、各末寺の御本尊であり(中略)また各家の御本尊である。だからそこに戒壇の御本尊の、大聖人様の血脈が、正宗を信心する皆様の中に皆伝わっておるのでございます。その根本たる戒壇の御本尊を忘れてしまったならば、いかに信心しても、大聖人様の血脈は通じてこない」(達全一―ニ―二五六頁)
と指南されています。


戸田会長さらに、第二代戸田会長も、
「ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。
 弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです」(戸田城聖全集四―三五〇頁)
と指導しています。


 創価学会は、自らが長きにわたって信条としてきた、根源の御本尊と枝流の御本尊とに立て分けがあることを指して、「世界広布を阻害する」と否定しました。
 自分達の都合によって信条をいとも簡単に覆す宗教団体が、世界の誰から信用されるというのでしょうか。
 むしろ、このような創価学会の体質こそ、「世界広布を阻害するもの」と断定します。

  ③「慈折広布の御本尊」 (創価学会常住御本尊)について


 聖教新聞には、平成二十五年十一月五日、創価学会は東京信濃町の総本部に「広宣流布大誓堂」を建て、そこに通称「慈折広布の御本尊」を安置したと報道されています。
 そもそも「慈折広布の御本尊」とは、昭和二十六(一九五一)年五月十九日に総本山第六十四世日昇上人によって書写されたものであり、脇書きには「大法弘通 慈折広宣流布大願成就」と認められています。
日昇上人 この御本尊を書写された日昇上人は、昭和三十(一九五五)年十二月十三日、創価学会
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関西本部の入仏式に際し、
「戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申しあげている御本尊でございまする」(聖教新聞・昭和三〇年二一月一八日付)
と仰せられています。

 このように、日蓮正宗の御歴代上人が認められた御本尊は、すべて本門戒壇の大御本尊の御内証を書写されたものです。
 したがって、根本の大御本尊を放棄して「慈折広布の御本尊」のみを用いようとする創価学会は、日昇上人の御慈悲を踏みにじる、不知恩きわまりない集団と言うべきです。

 第四節 創価学会の信仰の誤り



 原田会長は、「受持即観心」について説明するなかで、次のように述べています。
「御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮されるのであります。大聖人の御本尊は、『法華弘通のはたじるし』すなわち民衆救済のための御本尊であり、広宣流布のための御本尊であります。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます」 (本書139頁参照)
 この説明から、創価学会が、大御本尊を放棄したことによって、御本尊よりも衆生の信行を主体とするという、本末転倒の信仰論を主張し始めたことがわかります。

  ①正境なくして利益なし


 まず、原田会長は「御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮される」とか「御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます」と言い、信仰の功徳(御本尊の力用)には、仏力・法力よりも、衆生の信力’行力が優先するかのような主張をしています。
 しかし、日寛上人は『法華取要抄文段』に、
「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則んば智行も随って邪なり。境若し正な
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る則んば智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし」(文段五四〇頁)
と、信心修行においては、本尊の正邪の峻別が最優先し、その上で正境である本尊に対して信仰に励んでこそ、本尊の力用が発揮されることを指南されています。
 したがって、本門戒壇の大御本尊(正境)を放棄し、我見に任せて認定した本尊に向かって、会員がいかに唱題しようとも、功徳どころか、邪智・邪行の罪によって悪道におちることは確実です。

  ②言葉のみの広宣流布をかかげる創価学会



 創価学会は、ことあるごとに「創価学会こそ広宣流布を推進する教団」と主張しますが、日寛上人は広宣流布について、
「文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法こ二大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり(中略)此の本尊は広布の根源なり」(撰時抄愚記・文段二九〇頁)
と仰せられています。
 つまり、広宣流布とは本門戒壇の大御本尊を流布することであり、本門戒壇の大御本尊こそ、広宣流布の根源なのです。
 かつて、不相伝家の他門のなかにも、言葉のみの広宣流布を盛んに主張した例が、いくつかあります。
一如日重 日蓮宗(身延派)の宗制には、
「本宗の布教は、広宣流布の祖願達成を主眼とする」(日蓮宗宗憲第七条)
とあり、日蓮宗の一如日重(身延二十世)は『見聞愚案記』に、
「誓願の事、広宣流布の願望肝心なり(該書二〇―一五頁)
と言い、

長松清風本門仏立宗の長松清風(旦扇)は、
「今生人界の思ひ出をはたさんと、弘通広宣の道に励み給ふべき事専要に侯」(仏立宗義書四―二八四頁)

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田中智学と言っています。また、国柱会の田中智学も。
「妙信妙行を具足したる一大主義は(中略)終に宇内万邦に広宣流布すべき、末法応時の憲教たる本化妙宗これ也」(日蓮主義教学大観一―四二三頁)
と言っています。


 これらの宗派は、本門戒壇の大御本尊を知らず、御本仏大聖人の御聖意に背いているのですから、広宣流布という言葉はあっても、その実はないのです。
 創価学会も同様に、いかに「広宣流布」を口にしようとも、それは所詮、空虚な妄想でしかありません。

第三章 「大石寺は謗法の地」との妄言を破す



 第一節 総本山大石寺は最勝の地



 原田会長は、創価学会が大御本尊を放棄する口実として、
「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います」(本書139頁参照)
と言い、あろうことか、総本山大石寺を「大謗法の地」と誹謗しています。
 総本山大石寺は、本門戒壇の大御本尊と大聖人以来の血脈付法の御法主上人まします寺院であり、そこには大謗法など、あろうはずがありません。
 本門戒壇の大御本尊の住処は、必ず「最勝の地」なのです。
 日蓮大聖人は『南条殿御返事』に、
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「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(御書一五六九頁)
と教示されています。
 この御文について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付嘱の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり」 (六巻抄六四頁)
と指南されています。
 「法身の四処」とは、法華経の存在する所であり、末法においては、御本仏大聖人の御魂魄である本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺を指しています。
大石寺参道

 さらに、日寛上人は、
「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(同六六頁)
と仰せられ、宗祖大聖人以来の血脈法水が脈々と伝えられる富士大石寺は常に清浄であり、御本仏大聖人の心月に照らされた聖地であることを明かされています。
 したがって創価学会が、
「大石寺はすでに大謗法の地」(本書139頁参照)
などと誹謗することは、御本仏日蓮大聖人の御聖意を蔑ろにすることになるのです。
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御開扉に向かう創価学会員

 第二節 日蓮大聖人以来の血脈は厳然



 原田会長は、
「宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました」 (本書139頁参照)
と、勝手に決めっけています。
 かつて池田大作は、(第六十七世日顕上人の血脈に疑義を呈して宗門から擯斥された自称正信会の輩)を、次のように非難していました。
「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである」 (広布と人生を語る一―二三〇頁)
 このように、池田大作は、昭和五十四(一九七九)年七月に日顕上人が登座されてから平成二年までの十一年間、日顕上人に信伏随従していました。
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 しかし、平成二年に至り、池田大作による慢心スピーチに端を発した創価学会問題が起こり、創価学会は宗門攻撃を繰り返し、再三にわたる訓誡にも反省することがなかったため、宗門はやむなく創価学会を破門に処しました。
 創価学会は、そのことを逆恨みし、報復手段として、ついに日顕上人の血脈相承の否定を大々的に喧伝し始めたのです。
 これらの経緯を見ても、創価学会が主張する本宗の血脈断絶という誹謗は、単なる言いがかりであり、感情論に過ぎないことが明らかです。
 いかに創価学会が誹謗中傷を加えようとも、日蓮正宗は、宗祖大聖人以来の血脈を受けられた御法主上人の御指南のもと、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本として、七百年来の仏法を清浄に伝えて今に至っています。
 常識的に見ても、無節操な池田大作を「永遠の指導者」と崇め、時々の都合によって変節を繰り返す創価学会が正しいのか、あるいは七百有余年にわたって宗祖大聖人の教えを伝持し弘通している宗門が正しいのか、答えはおのずと明らかではありませんか。
総講頭辞表

第四章 会則改変の経緯



 ここで、創価学会規則の制定および創価学会会則の制定と改変について、その経緯に触れておきます。

 第一節 創価学会規則と創価学会会則の制定



 創価学会は、昭和五(一九三〇)年の発足以来二十余年間、日蓮正宗に所属する信徒の一グループでしたが、昭和二十七(一九五二)年に「宗教法人『創価学会』規則」を制定し、東京都知事の認証を受け、独立した宗教法人となりました。
 その後、池田大作が「昭和五十二年路線」による教義逸脱の責任を取って第三代会長と法華講総講頭を辞任し、改めて
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会則変更の流れ日蓮正宗の信徒団体として出発することを誓い、同時に創価学会会則を制定しました。
 その会則には、
「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年一〇月一二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」(聖教新聞・昭和五四年四月二五日付)
 とあり、「日蓮正宗の教義に基づき」 「弘安二年一〇月二一日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」ことを明示していました。
 しかし、創価学会は、自ら引き起こした問題によって、平成三年に宗門から破門され、その後、平成十四年に会則を改変しました。
 そして今回、平成二十六年に至り、従来の会則の教義条項から、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」の文言を削除するという、根本的な改変を行ったのです。

  第二節 「感情や歴史的な経過を踏まえ」との欺瞞



  この根本的な改変について、原田会長は、
「当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実践に励んできた会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊』については、『弘安2年(1279年)の大御本尊』を指すとの説明を行っていました」 (本書138頁参照)
 と述べています。
 すなわち創価学会は、今まで会員の感情や歴史的な経過を踏まえ、信仰の対象を弘安二年の大御本尊であると説明してきたが、本音は大御本尊を放棄することにあった、と言っているのです。
 これは、大御本尊に対する会員の渇仰恋慕の心が、時の経過とともに希薄になるのを待って、会則改変に踏み切ったものというべきです。このような、矛盾と欺瞞に満ちた創価学会に身を置く会員の末路は、哀れと言うほかはありません。


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  むすびに



 日蓮正宗は日蓮大聖人の教えを正しく伝える唯一の教団



 法華経の如来神力品第二十一には、
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」 (法華経五一六頁)
と、末法に出現する御本仏を予証されています。
 この経文のごとく、御本仏日蓮大聖人が出現され、末法の一切衆生を救済されるために、三大秘法の本門戒壇の大御本尊を図顕されました。この大御本尊こそ、大聖人の仏法の根本となる御法体です。
 日蓮大聖人は御入滅に先立ち、仏法の一切を第二祖日興上人に血脈相承されました。
 日興上人の『遺誡置文』には、
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「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(御書一八八四頁)
とあります。
 以来、日蓮正宗は七百数十年、この日興上人の御遺誡を守り、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本として仰ぎ、宗祖大聖人以来の血脈付法の御法主上人の御指南に随順して、正法を今日まで伝持・弘通してきたのです。

  広宣流布に向かって大前進する日蓮正宗



 創価学会を破門したあとも、日蓮正宗は御法主上人の御指南を根本に、僧俗一致して広宣流布に向かって大前進しています。
 第六十七世日顕上人は、平成十年に総本山の客殿を新築し、平成十四年には、宗旨建立七百五十年を記念した法華講三十万総登山を成し遂げるとともに、本門戒壇の大御本尊を御安置する奉安堂を建立されました。
客殿

日顕上人と奉安堂
 その折、日顕上人は、
「完全な邪教と化した団体が中心となって建設した建物に、平成三年の破門以降においても限りなく本門戒壇の大御本尊を御安置申し上げておくことは、畢竟、正法護持と弘通の精神に背くことであり、故に平成十年、奉安殿に御遷座申し上げました(中略)すなわち解体の処置は、邪義を破すとともに、仏法の正義を守るためであり、これが平成十年に断固として正本堂を解体した理由であります」 (大日蓮・平成一四年一一月号五一頁)
と仰せられ、池田大作が発願主となって建立された正本堂を解体した理由を明解に指南されました。
 海外においては、平成五年にスペインに新寺院が建立され、平成八年にはロサンゼルス寺院が移転されて、
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日顕上人が落慶法要の御親修を勤められました。
 平成十年には、アフリカ初の正宗寺院がガーナに建立されました。
 また台湾、フランス、ブラジル、インドネシアにも寺院が建立され、日顕上人が落慶法要を奉修されたのです。
 さらには、スペイン、香港、台湾、アルゼンチン、ブラジル、マレーシア、シンガポール、フィリピン、パナマ、韓国に布教所や事務所・出張所が開設され、海外布教が大きく伸展しました。
グラウンドゼロ

 また日顕上人は、平成十五年七月十五日、ニューヨークのグラウンド・ゼロにおいて、同時多発テロ犠牲者追悼法要を修し、平成十七年一月二十八日には、インドネシアのジャカルタに赴き、スマトラ沖大地震・インド洋大津波犠牲者追悼法要を修されています。
日如上人

 平成十七年十二月、日顕上人は日如上人に血脈法水を相承されました。
 第六十八世御法主となられた日如上人は、さらなる宗勢の発展に努められ、平成二十一年には立正安国論正義顕揚七百五十年を記念した
七万五千名大結集総会を総本山において開催し、全宗門挙げて広布への前進を誓い合いました。
75K総会

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 また、日如上人は、平成十九年五月には大聖人ゆかりの佐渡塚原跡に石碑を建立され、さら
に総本山の総合的な整備事業として、塔中二十力坊の建て替えを行い、平成二十五年には御影
堂の全面解体大改修事業も成し遂げられました。
塚原碑と御影堂落成

 海外においては、合湾、カナダ、韓国に寺院・布教所が建立され、日如上人の海外御親修も、台湾、シンガポール、フィリピン、パナマ、ガーナ、フランスに及んでいます。
 宗門の発展にともない、本門戒壇の大御本尊まします総本山大石寺も、いよいよ荘厳さを増し、国内のみならず、世界各国から多くの信徒が参詣しています。
 現在、日蓮正宗の僧俗は、御法主上人の御指南に随順し、末法の御本仏日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に向かって精進を重ねています。
新装塔中と海外信徒

また総本山では、所化
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学衆が、御法主上人の御慈愛のもと、未来広布の人材へと育つべく、希望に燃えて、日夜、修行に励んでいます。
寒行中

御開扉後

 このような宗門の輝かしい姿に対し、創価学会は、破門されてから二十数年を経て、ついに
本門戒壇の大御本尊を放棄するに至ったのです。
 御法主日如上人は、かつて広布唱題会の折、次のように指南されました。
広布唱題行で日如上人

「不幸と混乱と苦悩の根本原因は、ひとえに三宝破壊の池田創価学会をはじめ邪義邪宗の間違った教えにあり、この邪義邪宗の謗法を退治して、『実乗の一善』に帰依しなければ、真の幸せも国土の安穏も築くことはできないのであります。『実乗の一善』とは、文上の法華経ではなく、法華経本門寿量品文底秘沈の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊のことであります」 (大日蓮・平成二四年六月号四二頁)
 この御指南からも明らかなように、創価学会が従来の謗法に加えて、さらに本門戒壇の大御本尊を放棄するという許されざる大謗法を重ねたことによって、学会員のみならず、世の人々を、さらなる不幸と混乱に陥れることは間違いありません。
―--↓P070↓-------------------------------------先頭へ
大石寺へ行こう!

   ◇         ◇
 この書において、今回の会則改変に伴う創価学会の誤れる本尊義と、それを繕うための邪説を破折してきました。
 本書を手にしたあなたが、まず、矛盾のスパイラルにおちいった創価学会の誤りに気づいてください。
 かけがえのないあなたの人生を、より価値あるものにするため、一日も早く本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺のもとに帰依されることを祈ります。
 そのためにも、まずあなたの住む最寄りの日蓮正宗寺院を訪ねてください。
 ⇒ http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/templeall/temple_all.htm
   ◇       ◇
Q&A 創価学会員の言い分に答える
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     Q&A 目 次

一、創価学会の会則改変について

 Q1.「会則を改変したことは知らない」
 Q2.「会則改変の主な内容は何か」
 Q3.「会則の変更は、学会の執行部がやったことで、名誉会長は関与していない」
 Q4.「学会と宗門は別の教団だ。とやかく言われる筋合いはない」
 Q5.「会則改変は、創価学会の発迹顕本だ」

二、本門戒壇の大御本尊について
 Q6.「弘安二年の大御本尊とは何か」
 Q7.「大御本尊と家庭の御本尊は同じだ」
 Q8.「大御本尊は大謗法の地にあるから、受持の対象としない」
 Q9.「学会は大御本尊を否定していない」
 Q10.「学会が大御本尊への信仰を捨てるはずがない」
 Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」
  

《創価学会員に問いただそう》


 Q12.「御書には、大御本尊と他の本尊の違いは書かれていないではないか」
 Q13.「御書だけで議論しようではないか」
 Q14.「学会が大御本尊を拝めなくなったのは宗門が破門したからだ」
 Q15.「三大秘法とは何か」
      

《創価学会員に問いただそう》


 Q16.「広宣流布とは何か」
 Q17.「御本尊の書写とは何か」

三、創価学会の活動方針について
 Q18.「学会活動の基本は、これまでと何ら変わらない」
 Q19.「世界広布新時代なので、過去の指導は関係ない」
 Q20.「学会は『広宣流布を推進する仏意仏勅の教団』なので、御本尊を認定できる」
 Q21.「大誓堂安置の創価学会常住本尊とは、どういう御本尊か」
      

《創価学会員に問いただそう》


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四、創価学会の信仰と功徳について
 Q22.「大御本尊から離れても功徳を受けてきた」
 Q23.「大石寺に行かなくても、心で大御本尊を信じているからよい」
 Q24「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」
 Q25.「学会は御書根本だから、歴代法主や歴代会長の言葉はどうでもよい」
 Q26「学会は選挙に勝利し、繁栄しているから正しい」
 Q27「我が家の御本尊は、お寺から下付された第二十六世日寛上人の御本尊だ」
 Q28.「我が家の御本尊は、第六十六世日達上人の御本尊だ」
 Q29.「我が家の御本尊は、学会から受けた日寛上人の御本尊だ」

五、池田名誉会長について
 Q30「御本尊の功徳を教わった池田名誉会長について行く」
 Q31.「池田名誉会長に間違いはない」



一、創価学会の会則改変について

Q1.「会則を改変したことは知らない」
 A.創価学会にとって、重大な問題です。
   次の『聖教新聞』の記事をお読みください。
/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\ H261108聖教新聞
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Q2.「会則改変の主な内容は何か」
 A.今回の会則改変の主な点は、
① 「弘安二年の御本尊(本門戒壇の大御本尊)は受持の対象にしない」
② 「御本尊は今後、創価学会が認定する」
ということです。

Q3.「会則の変更は、学会の執行部がやったことで、名誉会長は関与していない」
 A 池田名誉会長は創価学会の「永遠の指導者」なのですから、教義・信仰の改変という重大事に関して、執行部が池田名誉会長の同意も得ずに、勝手にできるはずがないでしょう。
まして、八十年以上にわたる信仰の基本を覆す大事件ですから、名誉会長の強い意向が反映されたものであることは間違いありません。

Q4「学会と宗門は別の教団だ。とやかく言われる筋合いはない」
 A 宗開両祖以来、謗法厳誡を旨としてきた日蓮正宗の僧俗にとって、異流義となった創価学会の邪義を破折し、その過ちをただすのは当然のことです。
「宗門とは別の宗教団体」とはいっても、創価学会が日蓮正宗の信徒団体として発足した経緯からすれば、宗門と学会は親子に似た関係にありました。
たとえて言えば、非行に走る子供を諌めるのは、親として当然であり、宗門には創価学会とそこに所属する会員を正しい道に導びく責任があるのです。
Q5.「会則改変は、創価学会の発迩顕本だ」
 A 発逃顕本とは、仏が仮りの姿を払い、真実の境界(本地)を顕すことです。日蓮大聖人は竜口法難において、上行菩薩の再誕としての垂迹身を払い、久遠元初の自受用報身如来すなわち末法の御本仏という本地を顕されました。
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本来、発迹顕本とは、衆生を済度する仏様の化導に関する言葉です。迷いの凡夫が集まっている創価学会に、当てはまる言葉ではありません。

二、本門戒壇の大御本尊について
Q6.「弘安二年の大御本尊とは何か」
 A.日蓮大聖人が御年五十八歳のとき、弘安二(一二七九)年十月十二日に出世の本懐として図顕された大漫茶羅のことです。
この御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げますが、その意味は、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇(事の戒壇)に安置される御本尊ということです。
また、この御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」とも申し上げますが、それは一切衆生が尊崇すべき根本の御本尊という意味です。

Q7.「大御本尊と家庭の御本尊は同じだ」
 A.日寛上人は、本門戒壇の大御本尊が根源の御本尊であり、御歴代上人が書写された御本尊は枝流の御本尊であると指南されています(本書42頁参照)。なお、根本の大御本尊を放棄した創価学会員が所持する御歴代上人御書写の御本尊は、血脈が切れていますので、功徳はありません。

Q8.「大御本尊は大謗法の地にあるから、受持の対象としない」
 A.あなたは、大石寺を「大謗法の地」と言いたいようですが、それは創価学会が大御本尊を放棄するための、取って付けた口実に過ぎません。
大石寺は日興上人の開創以来、代々の御法主上人が日蓮大聖人の血脈を承継し、本門戒壇の大御本尊を厳護して、七百有余年、寸分違わず受け継がれています。その大石寺に大謗法など、あるはずがありません。
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Q9.「学会は大御本尊を否定していない」
 A.今回、創価学会は弘安二年の大御本尊を受持の対象としないと発表しましたが、これは大御本尊を受持の対象から外すことであり、大御本尊への信仰を放棄することを意味しています。
大御本尊への信仰を放棄することは、大御本尊への信仰を否定することにほかなり
ません。
その意味で、我々は「創価学会は大御本尊を否定した」と言っているのです。
Q10 「学会が大御本尊への信仰を捨てるはずがない」
 A.そのように言うあなたは、創価学会が戒壇の大御本尊を根本として進んできた教団であると信じ、あなた自身も大御本尊を人生の根本として信仰に励んできたのだと思います。しかし残念ながら、今回創価学会が過去八十数年間、信仰の対象としてきた大御本尊を放棄する旨を公表したことは事実なのです。
あなたは、この現実を冷静に受け止めて、今後の信仰のあり方を考えたらよいでしょう。

Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」
 A.あなたは「日蓮大聖人の御書に記述されていないことは、大聖人の教義ではない」 と言いたいのでしょうが、それは幼稚で短絡的な発想です。これについて、次の四点からお答えします。
①極理の師伝
日蓮大聖人の御書を正しく理解するには、 「極理の師伝」たる血脈相伝の御指南がなければなりません。
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第二祖日興上人は『遺戒置文』に、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書一八八四頁)
と仰せられ、日蓮大聖人の仏法の信仰においては、大聖人の御書を心肝に染め、極理を師伝しなければならないと指南されています。
「極理の師伝」とは、仏法の究極を師匠から弟子に伝えることで、宗祖大聖人から第二祖日興上人へ伝えられた唯授一人の血脈相承を言います。
これについて、 『百六箇抄』には、
「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闇梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず悉く付嘱せしめ畢ぬ」(御書一七〇二頁)
とあります。
 この唯授一人の血脈相承は、第二祖日興上人から第三祖日目上人へ、第三祖日目上人から第四世日道上人へと次第し、第六十八世日如上人まで、法灯連綿として伝えられています。
 ②釈尊像を本尊とする不相伝家
 一例を挙げますと、御書のどこを探しても「日蓮は本仏なり」とか「日蓮を本尊とせよ」とのお言葉はありません。
 むしろ、『御講聞書』には、
   「教主釈尊こそ世尊の本にては御坐し候へ」 (御書一八二五頁・傍線筆者)とあり、『報恩抄』には、
   「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(同一〇三六頁・傍線筆者)とあって、教主釈尊を仏とし、本尊とせよと明示されています。
 身延日蓮宗などの不相伝家は、このような文言の表面にのみ執われて、釈尊を本仏と仰ぎ、釈尊像を本尊としているのですが、これはまさしく、相伝(極理)を知らないことによる誤りなのです。

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 ③「日興が身に宛て給はる所の大御本尊」とは本門戒壇の大御本尊
 御書に「大御本尊」の記述がないということについて言えば、大聖人の御内証の一切は日興上人に伝えられているのですから、日興上人の御指南が日蓮大聖人の御正意なのです。
 日興上人は日目上人への譲り状に、
 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(日興跡条々事・御書一八八三頁)
 と書き残されましたが、『百六箇抄』には、
 「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(御書一七〇二頁)
 とあり、「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、「嫡々相承の曼荼羅」であることは明らかです。
 日寛上人は、この『百六箇抄』の御文について、
 「嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり」(文底秘沈抄・六巻抄六八頁)
 と明確に指南されています。
 このように「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊であることは明白です。
 
 ④「余は二十七年なり」とは大御本尊の予証
 『聖人御難事』には、
 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書一三九六頁)
 とあり、大聖人が弘安二年十月に出世の本懐を遂げられた旨が明かされています。
 日寛上人は、宗祖の出世の本懐について、
 「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(観心本尊抄文段・文段一九七頁・傍線筆者)

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  と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が宗祖の本懐であることを指南されています。
 また日寛上人は同文段に、
 「弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして」(同一九六頁・傍線筆者)
 と、宗祖大聖人が御年五十八歳の弘安二年十月十二日に出世の本懐である大御本尊を図顕されたことを明かされています。
 したがって、弘安二年十月十二日から立ち返って見れば、同年十月一日に著された
 『聖人御難事』に「余は二十七年なり」と仰せられた御文は、本門戒壇の大御本尊を御図顕する予証であったことがわかるのです。
 このように、血脈相伝にもとづいて拝すれば御書に明白である御教示も、相伝のない者から見れば「御書のどこにもない」ということになるのでしょう。
 
   (創価学会員に問いただそう》
 ○あなたは、唯授一人血脈相承を受けられた日興上人や日寛上人の御指南に随順しますか。
 はい ⇒ 日興上人今日寛上人の御指南に背いて、大御本尊への信仰を放棄した創価学会は間違っていますね。
 
 いいえ ⇒ あなたは血脈相承を無視する身延日蓮宗と同じですね。釈尊を本仏とし、釈尊像を拝むべきです。
 ○12.「御書には、大御本尊と他の本尊の違いは書かれていないではないか」
 
 A・あなたは、御書には大御本尊と他の本尊との違いが書かれていないと言いますが、日蓮大聖人の仏法において、御本尊に関することは極理に属することであり、日蓮大聖人は、その記述について重々の配慮をなされ、慎重を期されました。
 しかし、『本因妙抄』には、     「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の泉承唯授一人の血脈なり」 (御書一六八四頁)

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とあり、日蓮大聖人の極理である御本尊の大事は、唯授一人の血脈相承をもって日興上人に伝えられたことを明かされています。
 また『一代聖教大意』には、
 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(同九二頁)
 と仰せられています。
 この御文について、日寛上人は『撰時抄愚記』に、
 「宗祖の云わく『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云。『塔中及び蓮・興・目{等云云」(文段三三七頁)
 と記され、『一代聖教大意』に仰せられる「相伝」とは、霊山での付嘱および末法における日蓮大聖人から日興上人、そして日目上人へと伝えられる唯授一人の血脈相承を指す言葉であり、その相伝の内容は血脈伝持の人以外には知りえないことである、と指南されています。
 しかしいあえて相伝の上から大御本尊とその他の御本尊との違いについて言えば、
 『日興跡条々事』には、「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(御書一八八三頁・傍線筆者)
 とあり、また日寛上人は、
  「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(観心本尊抄文段・文段一九七頁・傍線筆者)と仰せられ、弘安二年の大御本尊こそ根本の御本尊である旨の御指南をされています。
 あなたが言うところの「大御本尊とその他の御本尊との差違」などは、すべて「本尊の大事」に含まれる事柄であり、血脈相承を受けられた御法主上人以外の者が、とやかく議論すべきことではないのです。

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Q13.「御書だけで議論しようではないか」
 
 A.あなたは何のために議論したいのですか。法義を論ずるのは、日蓮大聖人の御真意を知り、正しい信仰をするためでなければなりません。
 日蓮正宗においては、教義に関する正否の裁定は、血脈付法の御法主上人の権能と定められています(宗規第七条)。
 それは、日興上人が、
 「御抄を心肝に染め極理を師伝して云々」 (日興遺誠置文・御書一八八四頁)
 と仰せられるように、日蓮大聖人の御書と、それを誤りなく解釈するための「極理の師伝」を根本とするからです。
 ところで、「御書だけ」に限定して議論したいと言うところを見ると、創価学会にとっては、日興上人以来の相伝がよほど都合が悪いようですね。
 日蓮正宗では、教義・信仰に関して、御書の文言として直接著されない事柄であっても、血脈相伝に基づく御指南であれば、それが宗祖大聖人の御真意であると拝しますから、御書にないからといって、信仰の上で、すこしも困ることはありません。
 それに対して、「御書根本」と称して御書以外の御歴代上人や歴代会長の言葉を拒否しなければならない創価学会は、さぞかし説明に困ることが数多くあるのではないでしょうか。
 
 あなたが、どうしても御書の文言にないものは信用しないと言うならば、まず次の問いに答えなさい。
  (一)創価学会では日蓮大聖人を末法の御本仏と崇めていますが、「日蓮は末法の本仏なり」とする直接的な御書の文証を挙げなさい。
  (二)創価学会が言う「在家教団でも御本尊を認定できる」とする御書の文証を挙げなさい。
  (三)在家の者が葬式の導師を勤めてもよい、という御書の文証を挙げなさい。
  (四)御本仏日蓮大聖人のほかに仏法上の「永遠の師」を立ててもよい、という御書の文証を挙げなさい。

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 また、あなたが御書の文言を忠実に実行する「御書根本」の人ならば、まず手始めに『報恩抄』の、
 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六頁)
 の御文のとおり、釈尊の仏像を拝むべきです。
  この一事をもってしても、創価学会がはてしない矛盾のスパイラルにおちいっていることは明らかです。
 しかも、御本仏日蓮大聖人の出世の本懐たる人法一箇の大御本尊を放棄した創価学会が、いずれは日蓮大聖人をも放棄することは誰の目にも明らかです。
 そうなれば、創価学会の言う「御書根本」も死語になってしまうのです。Q14.「学会が大御本尊を拝めなくなったのは宗門が破門したからだ」
 
 A.創価学会が破門されたのは、平成二年十一月十六日の池田名誉会長の慢心スピーチに端を発しています。その後、学会は、御法主上人への誹謗や宗門僧侶への嫌がらせを繰り返し、これに対し宗門は、学会を再三、訓誡しました。
 しかし、学会がまったく耳を貸さなかったため、宗門は平成三年十一月二十八日に創価学会を破門にしました。
 このように、創価学会は自らの謗法行為によって、大御本尊を拝むことができなくなったのです。
 あなたが正しい信仰に目覚めて日蓮正宗に帰依すれば、いつでも大御本尊を拝むことができるのです。

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Q15.「三大秘法とは何か」
 
 A.三大秘法とは、
  本門の本尊……大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊
  本門の戒壇……本門の本尊を安置する所
  本門の題目……本門の本尊を信じて唱える題目
  であり、本門の本尊に「人」と「法」、本門の戒壇に「事」と「義」、本門の題目に「信」と「行」という六義(六大秘法)の立て分けがあります。
 しかし、これらは別個の存在ではなく、日寛上人が『依義判文抄』に、
 「三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」 (六巻抄八二頁)
 と仰せのように、三大秘法は一大秘法である本門戒壇の大御本尊から開かれたものであり、また一大秘法として戒壇の大御本尊に納まります。
 このように本門戒壇の大御本尊を離れて三大秘法はありえないのですから、大御本尊を信仰の対象から外して、三大秘法のみを信ずるという創価学会の信仰は観念論に堕しているのです。
  (創価学会員に問いただそう)
 ○日寛上人は三大秘法に六義あることを示されていますが、あなたはこれを認めますか?
   は い ⇒ 事の戒壇は弘安二年の大御本尊が在す場所です。それを否定する創価学会は間違っていますね。
   いいえ ⇒ 日寛上人の御指南に随順していません。Q16.「広宣流布とは何か」
 A.広宣流布とは、日蓮大聖人の願業であり、弟子檀那にとっての究極の目的です。
 その意味は、世界中の人々が、総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に帰依し、それによって全世界が平和になり、すべての人々が幸福になることです。

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   ですから、根本の大御本尊を放棄した創価学会に、広宣流布を論ずる資格はないの
  です。Q17.「御本尊の書写とは何かJ
 A.「書写」とは「書き写す」ことであり、日蓮正宗においては、本門戒壇の大御本尊を御法主上人が「書き写す」ことを言いますが、それは単に大御本尊のお文字を書き写すことではありません。
 御本尊の御書写とは、本門戒壇の大御本尊の御内証を、時の御法主上人が唯授一人血脈相伝をもってお写しされることであり、大御本尊にそなわる御本仏の「魂」と、一切衆生を救済される御本仏の功徳を、そのまま写されることなのです。
 三、創価学会の活動方針について
 Q18.「学会活動の基本は、これまでと何ら変わらない」
 A.宗教団体が信仰の対象となる本尊を変更するということは、所属する会員にとって、この上ない大事件です。
 本尊を変更すれば、教義も信仰も変わらざるをえません。
 にもかかわらず原田会長は、会員に対して「学会活動の基本は、これまでと何ら変わりません」(本書一三九頁参照)と言いましたが、これは会員を誑惑するための脆弁です。
 Q19.「世界広布新時代なので、過去の指導は関係ない」
 A.日蓮大聖人の仏法において、本門戒壇の大御本尊を根本とすることは、いかなる時代であっても不変の鉄則です。

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 創価学会も、過去八十数年にわたって、会員に対し、本門戒壇の大御本尊への信仰を深めるよう指導してきました。
 ところが今回、創価学会は「新時代」などの手前勝手な口実で、全部反故にするというのです。
 これはまさしく、仏法の上から見れば虚誕罪(いつわりの罪)に当たり、世間的には「ウソツキ」と言われるのです。
 たとえば、ある人が長年約束してきたことを、「新時代に入ったから」という理由で、突然「今までの約束は全部なかったことにする」と言うならば、その一事で周囲の信頼を失うでしょう。それは場合によっては、犯罪にもなります。
 あなたの言い分は、それと同じです。Q20.「学会は『広宣流布を推進する仏意仏勅の教団』なので、御本尊を認定できる」
 
 A.「広布の根源」たる大御本尊を放棄した創価学会は、「広宣流布を推進する」団体ではなく、「仏意仏勅の教団」でもありません。
 今回、創価学会は従来の仏法破壊の謗法の上に、大御本尊放棄という大謗法を重ねたのです。
 したがって、そのような仏意仏勅に違背する在家集団が御本尊を勝手に認定することなどは、できるはずがないのです(本書29頁参照)。Q21.「大誓堂安置の創価学会常住本尊とは、どういう御本尊か」
 
 A.この御本尊は、総本山第六十四世日昇上人が昭和二十六年、第二代戸田会長の願いにより書写された御本尊です。
 この御本尊の授与書きには「創価学会常住」とあり、脇書きには「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と認められていることから、「慈折広布の御本尊」とも呼ばれています。
 
 昭和四十九年ごろ、学会はこの「創価学会常住本尊」を模刻して板本尊としまし

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た。この板本尊が、創価学会総本部の大誓堂に安置されています。
 学会は、根本である本門戒壇の大御本尊を信仰の対象から外し、書写された「慈折広布の御本尊」を重視しているようですが、これは本末転倒の行為というべきです。
 
 (創価学会員に問いただそう)
 ○あなたは第六十四世日昇上人の御指南に随順しますか。
  は い ⇒ 日昇上人は、本門戒壇の大御本尊を根本とすると指南されています(本書45頁参照)。創価学会は、この御指南に背いていますね。
  いいえ ⇒ 随順しないということは、信用しないということです。信用できないお方が認めた御本尊を拝むあなたは、頭破作七分の悩乱者です。
 
 四、創価学会の信仰と功徳について
 Q22.「大御本尊から離れても功徳を受けてきた」
 
 A.あなたが邪宗教となった創価学会に所属している限り、功徳と思い込んでいることは、邪宗特有の魔の通力にすぎません。
 『諌暁八幡抄』には、
 「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(御書一五三一頁)
 と仰せられています。
 すなわち、邪法を信ずることによって一分の利益があったように見えても、それは仏天の利益ではなく、第六天の魔王の力によるものであり、結局は身の破滅に至るの

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です。
 したがって今後は、いかに会員が家庭の御本尊を拝んでも、功徳を積むどころか、かえって堕地獄の業因を重ねるだけです。Q23.「大石寺に行かなくても、心で大御本尊を信じているからよい」
 
 A.学会員のなかには、破門以降も、大石寺に安置される大御本尊を思い描いて、勤行・唱題をしていた方もいたでしょう。
 そのような人達は、日蓮大聖人の教えを守って信心しているからよいと思っているかも知れません。しかし、名実ともに大御本尊から離れ、大謗法集団になった創価学会に籍を置く以上、その家庭の御本尊も、またその人の信心も、大御本尊の血脈から離れたものであり、そこに功徳は絶対にないのです。
 Q24.「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」
 
 A.あなたは『日女御前御返事』の、
 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書一三八八頁)
 との御文を根拠として、そのように言うのでしょう。
 この御文は、衆生個々の生命に成仏の因となる仏性がそなかっており、御本尊に向かって唱題することによって、はじめて衆生の仏性が開かれ、そこに真実の仏界が涌現することを教示されたものです。
 これについて、総本山第六十六世日達上人は、
 「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。
 そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったの

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か。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全ニー五-六〇〇頁)
 と仰せられています。
 この御指南からも、「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかです。
 Q25.「学会は御書根本だから、歴代法主や歴代会長の言葉はどうでもよい」
 
 A.創価学会の幹部のなかには、「学会は御書根本だから、大聖人の言葉だけを信じている。それ以外の歴代法主や歴代会長は、途中の人師・論師にすぎないから用いる必要はない」と言う人がいます。
  創価学会の言う「御書根本」については、他の項目で破折しています。(本書81・90頁参照)
  「歴代法主の言葉はどうでもよい」という主張は、御歴代上人に伝えられる血脈にもとづく御指南を蔑ろにすることであり、それは『百六箇抄』に仰せられる、
 「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二頁)
 との御教示に背くことであり、大謗法の言というほかはありません。
 また、「歴代会長の言葉はどうでもよい」という主張は、現在の創価学会が、牧口・戸田両会長の指導に違背し、本来進むべき道を見失った状態にあることを物語っています。
 ひとつの宗教団体の教義・信条がコロコロと変わり、八十数年間根本としてきた大御本尊を放棄し、歴代会長とまったく違った指導をするなどは、世間の物笑いの種というべきでしょう。

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Q26.「学会は選挙に勝利し、繁栄しているから正しい」
 
 A.そもそも、選挙活動は信仰そのものではありません。
 まして選挙における得票数や議席は、どの政党であっても常に変化するものであり、議席が少しばかり増えたからといって、創価学会が正しいなどという理由にはなりません。Q27.「我が家の御本尊は、お寺から下付された第二十六世日寛上人の御本尊だ」
 
 A.あなたは、以前に日蓮正宗の寺院から正規に下付された日寛上人の御本尊を拝んでいるのだからそれでよい、と思っているようです。
 しかし、日寛上人は、
 「本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり」(報恩抄文段・文段四六九頁)
 と仰せられています。
 すなわち、日寛上人をはじめ、御歴代上人が書写された御本尊は、すべて本門戒壇の大御本尊を根源としたものであり、その根源を離れるならば、血脈は通わないのです。
 創価学会は、根源の御本尊である大御本尊を放棄し、名実ともに大謗法集団となったのです。したがって、創価学会に所属するあなたが護持する日寛上人の御本尊は、残念ながら、すでに血脈の切れた、功徳のないものになっています。
 ですから、あなたは自らの幸せを築くために、一日も早く日蓮正宗の正しい教えに帰依すべきです。
 Q28.「我が家の御本尊は、第六十六世日達上人の御本尊だ」
 
 A.あなたは、以前に日蓮正宗の寺院から正規に下付され九日達上人の御本尊を拝んでいるのだからそれでよい、と思っているのではないでしょうか。

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 しかし、日達上人は、
 「戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく、人を救うところの力もないのであります」(達全一―一―三三九頁)
 と仰せられ、根本の御本尊である戒壇の大御本尊から離れた御本尊には仏の命はなく、血脈も通わない、と指南されています。
 創価学会は、根本の御本尊である大御本尊を放棄し、名実ともに大謗法集団となったのです。したがって、創価学会に所属するあなたが護持する日達上人の御本尊は、すでに血脈の切れた、功徳のないものになっています。
 自らの幸せを築くために、一日も早く日蓮正宗の正しい教えに帰依すべきです。Q29.「我が家の御本尊は、学会から受けた日寛上人の御本尊だ」
 
 A.この本尊の相貌は総本山第二十六世日寛上人のお筆によるものですが、これは宗門から破門された創価学会が会員の組織離れを防ぐために、正当な手続きを経ることなく、日寛上人御書写の御本尊を勝手に複製し、頒布した『ニセ本尊』です。
 したがって、大聖人以来の血脈に背いたこの『ニセ本尊』を拝むならば、魔の用きによって、はてしない苦しみの世界におちていくのは間違いないことなのです。
 
 
 五、池田名誉会長について
 Q30.「御本尊の功徳を教わった池田名誉会長について行く」
 
 A.私達衆生が、過去の罪障を消滅し、成仏の境界に至る道は、御本仏日蓮大聖人の教えに従い、本門戒壇の大御本尊を信仰の対境として、正しく信行に励む以外にありません。
 あなたが「ついて行く」と言う池田名誉会長は、日蓮大聖人以来の血脈の教えに反逆し、大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊への信仰を放棄しました。

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 したがって、あなたが信奉する池田名誉会長は、正しい信仰者ではなく、大謗法の指導者になっているのです。
 仏法において師匠と言われる人は数多くいますが、仏の教えに背く指導者の臨終について、『松野殿御消息』には、
 「無垢論師は舌五つに破れ、嵩法師は舌だゞれ、三階禅師は現身に大蛇となる。徳一は舌八つにさけにき」(御書九五二頁)
 と、その現罰の様相が記されています。
 すなわち、大乗仏教を滅ぼそうとした小乗教の無垢論師は舌が五つに裂けて地獄に堕ち、中国仏教を滅亡させようとした還俗僧・元嵩は全身に悪瘡を生じて身を滅ぼし、法華経以外の教えでも成仏できると説いた三階教の祖師・信行は現身に大蛇と化して死に、伝教大師を謗った法相宗の僧・徳一は臨終に舌が八つに裂けたと説かれています。
 この御教示に照らしてみても、池田名誉会長が、これらの謗法の指導者と同様の厳罰を受けることは明らかであり、あなたを成仏に導く師匠とはならないのです。
 Q31.「池田名誉会長に間違いはない」
 
 A.「間違いはない」と言いますが、この世に完全な人間などいませんし、間違いを犯さない人間もいないのです。
 池田名誉会長は、宗教団体の指導者でありながら、過去に何度も信仰面で過ちを犯しています。
 その最たるものが、平成二年十一月の「池田大作慢心スピーチ」に端を発した、創価学会問題です。
 その流れを受けて、今回の本門戒壇の大御本尊放棄という大謗法に至ったことを知るべきです。

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付録I
 創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集

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破折文証集 目  次
 日蓮大聖人御教示…………………………………………………………………………………………m
 第二祖日興上人御指南…………………………………………………………………………………………116
 第14世日主上人御指南…………………………………………………………………………………………m
 第26世日寛上人御指南…………………………………………………………………………………………117
 第56世日應上人御指南…………………………………………………………………………………………120
 第59世日亨上人御指南…………………………………………………………………………………………120
 第60世日開上人御指南…………………………………………………………………………………………120
 第64世日昇上人御指南…………………………………………………………………………………………121
 第65世日淳上人御指南…………………………………………………………………………………………122
 第66世日達上人御指南…………………………………………………………………………………………以一
 牧口初代会長指導…………………………………………………………………………………………………………………124
 戸田二代会長指導…………………………………………………………………………………………………………………124
 池田大作指導…………………………………………………………………………………………………………………………129
 折伏教典……………………………………………………………………………………………………………………………………133
 その他……………………………………………………………………………………………………………………………………136

《日蓮大聖人御教示》


 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年収なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり(聖人御難事・御書一三九六頁)
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云(御義口伝・御書一七七三頁)
 ○大石寺は本門戒壇建立の霊地
 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり(三大秘法禀承事・御書一五九五頁)
 
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日    日蓮花押
        血脈の次第 日蓮日興
 (日蓮一期弘法付嘱書・御書一六七五頁)

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 三箇の秘法建立の勝地は富土山本門寺の本堂なり(百六箇抄・御書一六九九頁)
 
 日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり(百六箇抄・御書一七〇二頁)
 ○戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな
 善に付け悪につけ法華経をすっるは地獄の業なるべし(開目抄・御書五七二頁)
 
 ○御本尊の大事は唯授一人の血脈
 此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり(本因妙抄・御書一六八四頁)
 直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿開梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(百六箇抄・御書一七〇二頁)
 
 
 

《第二祖日興上人御指南》


 
 ○本門戒壇の大御本尊
 日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし(日興跡条々事・御書一八八三頁)
 
 ○大石寺は本門戒壇建立の霊地
 富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す。爰に知んぬ、先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す、弘通此の地に在るなり(五人所破抄・御書一八七八頁)
 
 

《第十四世日主上人御指南》


 
 ○戒壇の大御本尊は付嘱の御法体
 大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊法体御付嘱なり(日興跡條々事示書・歴全一―四五九頁)
 
 

《第二十六世日寛上人御指南》


 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや(観心本尊抄文段・文段一九六頁)
 
 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり(観心本尊抄文段・文段一九七頁)
 
 宗祖の弘法も亦三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而して復宗旨建立已後第二十七年に当たって己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕わしたまえり(観心本尊抄文段・文段二一二頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
 本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり(観心本尊抄文段・文段二四三頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
 文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり(中略)此の本尊は広布の根源なり(撰時抄愚記・文段二九〇頁)
 
 富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや(文底秘沈抄・六巻抄六八頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は根源の御本尊
 広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆

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嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も但是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり(法華取要抄文段・文段五四三頁)
 
 戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり(報恩抄文段・文段四六九頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり(依義判文抄・六巻抄八二頁)
 
 一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊在す上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向い戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則んば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝し給へ (中略)其の三大秘法の住する処こそ何の国にてもあれ霊山会場寂光の浄刹なるべし(寿量演説抄・歴全四―一四五頁)
 
 されば諸天も石劫打やめて嫡々付法の三大秘法のたたせ給ふ大いしの寺を守らせ給へ(日寛上人伝九二頁)
 
 ○大石寺は本門戒壇の霊地
 当山は本門戒壇の霊地なり(中略)正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり(法華取要抄文段・文段五四三頁)
 
 本門戒壇の本尊は正応元年冬の比、彼の身延を去って此の富山に移る。蓋し是れ意有らんか。凡智の能く測る所に非ず。既に是れ富山は本尊所住の処なり。豈此の処に戒壇を起てざらんや(法華取要抄文段・文段五四三頁)
 
 問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり(文底秘沈抄・六巻抄六一頁)
 教主釈尊の一大事の秘法とは結要付嘱の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり(文底秘沈抄・六巻抄六四頁)
 
 百六箇に云わく「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべし乃至何の在処たりとも多宝富士山本門寺と号すべし」云云。嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり。故に御遺状に云わく「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊は、日目に之れを授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。故に百六箇の文意は本門戒壇の本尊所在の処を本門寺と号すべし(文底秘沈抄・六巻抄六七頁)
 
 今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らがらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり(文底秘沈抄・六巻抄六六頁)
 
 ○大御本尊を離れれば似せ薬
 「日興が身に宛て賜はる所の弘安二年の大本尊は、日目に之を授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。今四百余年に至る。他流は皆是れ似せ薬なるべし(妙法曼陀羅供養抄記・文段七〇三頁)
 
 ○日蓮正宗の三宝
 南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人師。南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。

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此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし(当家三衣抄・六巻抄二二五頁)
 
 

《第五十六世日應上人御指南》


 
 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 抑も戒壇本尊の造立は宗祖出世の本懐にして一期弘通の大事なり(弁惑観心抄一九三頁)
 
 ○御本尊書写の権能は御法主上人にある
 此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ(弁惑観心抄二一九頁)
 
 

《第五十九世日亨上人御指南》


 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 一期の弘法即三大秘法、三秘の中心即本門戒壇の大御本尊である(大白蓮華・昭和二八年九月号二六頁)
 
 

《第六十世日開上人御指南》


 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 吾が総本山に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖一期の大事、本門三大秘法の随一にて在すなり。この御本尊に背き奉るところの他宗他門の仮令日蓮宗と称するものも、凡て謗法の徒にして、釈尊出世の本懐に背き、宗祖違背の大罪人にして、主師親の大道を忘れ、久遠元初の本因の大法、因果の道を忘れたる、これ仏法内の外道にほかならず、況んやその余をやであります(日開上人全集二五三頁)
 
 

《第六十四世日昇上人御指南》


 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 久遠本仏たる宗祖日蓮大聖人は南無妙法蓮華経をお唱へ出された年から二十七年即ち弘安二年に出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を一切衆生に総与遊ばされたのであります。日昇不肖ながら先師の跡を継いで此の大御本尊を守護し奉り広宣流布の時を待って居ります(大白蓮華・昭和二七年六月号四頁)
 ○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
 夫れ戒壇の本尊は宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。
 宗祖大聖人弘安二年十月十二日之れを建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に当て給るところなり(大日蓮・昭和三〇年一二月号一四頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 日蓮大聖人様は弘安二年十月十二日に本門の本尊を建立せられ、この本尊を一器の水を一器に移すように日蓮、日興、日目と付属せられ不肖日昇までに伝えられ、丑寅の勤行怠慢なく今日までに伝えられたのであります。本門戒壇の本尊こそ富士大石寺にまします三大秘法の御本尊であります(聖教新聞・昭和二七年四月一〇日付)
 
 今此の三大秘法はこの戒定慧の三つで、まことに最大事の要法でありますから秘法と申すのであります。扨て又この三大秘法は開きますとこの三つになるのでありますが、此れをつづめますると本門の御本尊即ち大曼荼羅の一つに帰するのであります(中略)大聖人の御化導を拝し奉ると、三大秘法と申しまするにその究竟の眼目は戒壇の大御本尊に帰着致すのでありまして即ち皆様が今日篤くと拝せられました当山に護持し奉る戒壇の大御本尊に帰するのであります(大日蓮・昭和二九年五月号三頁)

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 ○戒壇の大御本尊の内証を御書写
 戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申しあげている御本尊でございまする(聖教新聞・昭和三〇年一二月一八日付)
 
 

《第六十五世日淳上人御指南》


 
 O戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります(中略)妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯御一人在ますだけであります(淳全九八二頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 大聖人の御施化に於ては此の戒壇の大御本尊が究竟であらせられるのでありまして一切の御法門も御教示も皆此に帰趣せしめられるためであります。しかして御在世に於て有縁の信者へ御本尊を御授与遊ばされましたが、皆此の御本尊中より出生せしめられしところでありまして、その根源は此にあらせられるのであります。御滅後に於てはなほ更然りであります(中略)即ち一切衆生の帰命をなすべき御本尊であります。現在此の御本尊は本宗総本山大石寺に深く蔵し奉るところであります(淳全四九三頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 三大秘法の実体こそ誠にこの本門戒壇の御本尊であります(中略)我が日蓮正宗に於いては、日蓮大聖人様の御正意を承継あそばす御開山日興上人の御高徳によりまして幸いにも皆様方には三大秘法の実体たる本門戒壇之大御本尊様を信受し奉ることが出来るので御ざいます(淳全二一二頁)
 三大秘法をつづめると御本尊の一大秘法におさまるのであります。而して此の御本尊こそ弘安二年十月建立し給ふ大曼荼羅でありまして、此れを戒壇の大御本尊と申上げ大聖人より付法二祖日興上人に御譲り遊ばされました。そして現在日蓮正宗富士山大石寺に護持せられる大御本尊であります(淳全四〇〇頁)
 
 日蓮大聖人の御施化に序正流通 従浅至深の次第があらせられるも、究竟するところ三大秘法の御建立であらせられることは、今日に於て何人も承知するところであって、若し三大秘法といへば本門本尊の一大秘法に帰するは理の当然である。若し然りとすれば吾が総本山大石寺に安置し奉る戒壇の大御本尊が大聖人の施化の究竟と拝さなければならない。若し此旨を失へば御一代の御示教は全く泡沫になって了ふのである(淳金八二六頁)
 
 

《第六十六世日達上人御指南》


 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 本宗の教義は、宗門の信仰の対象は、すなわち弘安二年、大聖人様のご本懐の戒壇の大御本尊様であります。そして、その大聖人様はこの戒壇の大御本尊様をご建立あそばされ、すなわち大聖人様即戒壇の大御本尊様であります(達全ニー六-二七三頁)
 ○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく、人を救うところの力もないのであります(達全一―一―三三九頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 日蓮正宗の宗旨の三秘は本門事の戒壇の御本尊の一大秘法に納まるのである(達全ニ―七―五一二頁)

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 ○戒壇の大御本尊の内証を御書写
 戒壇の御本尊の、又、写しが、各末寺の御本尊であり(中略)また各家の御本尊である。だからそこに戒壇の御本尊の、大聖人様の血脈が、正宗を信心する皆様の中に皆伝わっておるのでございます。その根本たる戒壇の御本尊を忘れてしまったならば、いかに信心しても、大聖人様の血脈は通じてこない(達全一―二―二五六頁)
 
 

《牧口初代会長指導》


 
 ○戒壇の大御本尊を信じよ
 御本尊の中、総与の御本尊と称して、大石寺に伝へられる大御本尊を信じ奉る者が正しい信者である(牧口常三郎全集一〇―一五一頁)
 
 大善生活かいかにして吾々の如きものに百発百中の法則として実証されるに到ったか。それには、仏教の極意たる妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法があることを知らねばならぬ(牧口常三郎全集一〇―一四二頁)
 
 釈尊が「五濁悪世」と予言した末法現代の重病は大火であり、三大秘法の大御本尊以外の小水では、消火はおろか、ますます火勢を強大にするのみである(牧口常三郎箴言集二〇六頁)
 
 

《戸田二代会長指導》


 
 ○本門戒壇の大御本尊
 弘安二年十月十二日の御本尊様が、究極中の究極の御本尊様なのです。大御本尊を拝すると、花押の下に「本門戒壇也」と、チャンとおしたためになっている。その次に、願主弥四郎国重とありますが、本門戒壇の願主ですけれども、この御本尊は、本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない。絶対にない(大白蓮華・昭和三四年三月号七頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 僅か小勢百数十人の僧侶が愚僧悪僧邪僧充満の悪世によく耐えるもので、大聖人の「御出世の御本懐」たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護し奉って、七百年間、塵もつけず敵にも渡さず皆々一同代々不惜身命の心掛けで一瞬も身に心に身心一つに御本尊を離れずに今日に至ったのである(中略)かくも法体を守護し、且つ化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである(大白蓮華・昭和二六年六月号巻頭言)
 
 余は二十七年なりとは弘安二年十月十二日の総与の御本尊の出現をさしての御仰せであって、この御言葉によって本仏出世の御本懐は此の御本尊の出現にある。世の不幸を救ふ一大秘法は此の本尊にありと信じなくてはならぬ(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)
 
 弘安二年十月十二日の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟本懐の中の本懐で真に尊き事と拝さねばなるまい。この御本尊こそこれ三大秘法の随一であり、一閻浮提総与の御本尊である(大白蓮華・昭和二八年二月号三頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 御本仏は、生きていらっしゃるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏の御名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下ざるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二〇六頁)
 
 日蓮大聖人はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人の御当体とは気がつかないでいるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二一三頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
 学会は今大聖人の命うけて弘安二年十月十二日に御顕しになられた一閻浮提総与の御本尊を日本に流布せんことを誓う(聖教新聞・昭和二六年一一月一〇日付)

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「明鏡」とは、弘安二年十月十二日に宗祖日蓮大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であり、「向かって」とは、われわれがこの大御本尊を唯一最尊の大御本尊なりと信じたてまつることである(戸田城聖全集七―一二五頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです(戸田城聖先生質問会集二一頁)
 
 われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです(戸田城聖全集四―三四九頁)
 
 「大白法」とは何か。それは本門の三大秘法であり、就中、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、一切の教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根元である(大白蓮華・昭和二四年八月号二頁)
 
 大御本尊に向って、御本山のしきたり通りの化儀によって、題目を口唱する、その時こそ、口に心に身に御本尊を受持したことになるのである(大白蓮華・昭和三二年六月号ー頁)
 
 この本尊論がまことに大事なところなんです。これが狂ってくると、一切が狂ってくる。ただ、富士大石寺の文底深秘の大御本尊、これより他にはない。これが根本なのですよ(大白蓮華・昭和三四年四月号九頁)
 
 ○大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
 
 日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである(戸田城聖全集三―八三頁)
 
 日蓮大聖人おおせの、もっとも根本は、弘安二年十月十二日御出現の大御本尊であります(日蓮正宗方便品寿量品講義八六頁)
 
 ○大石寺は本門戒壇建立の霊地
 本門戒壇の建立されるべき地を大日蓮華山という(戸田城聖全集七―六九頁)
 
 ○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
 日蓮大聖人様から六百余年法灯連綿と正しく続いた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無けつな仏法が正宗なのである。この仏法こそ私達を真に幸福に導いてくれる宗教であることを私達は日夜身をもって体験してゐるのである(中略)私達は無智な人々を導びく車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である。宝の山に入って宝をとるかとらないかはその人の信心の結果であって、たゞ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが我々学会の尊い使命なのである(大白蓮華・昭和二四年一二月号一頁)
 
 ○日蓮正宗の教義を弘めよ
 日蓮大聖人以来の正しい歴史と教義を、世に弘めるべく大いに努力しなければならない(戸田城聖全集六-四〇四頁)
 ○戒壇の大御本尊を信じよ
 なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている(戸田城聖全集三―四九〇頁)

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絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない(戸田城聖全集四-七八頁)
 私の願いとするところは、この弘安二年の十月十二日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです(戸田城聖全集四―三五〇頁)
 
 世の為人の為に富士大石寺にいます「大御本尊」を一人にでも多く授けたいと努力するのが即ち折伏と言ふのである(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)
 
 当門に於いて観心とは受持即観心と云って弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大漫荼羅を余行をまじえずひたぶるに信心し奉る事である(大白蓮薬方昭和二八年一二月号巻頭言)
 現代に於ては時刻相応の教と云うならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずる事である。大聖人の御命たる大曼荼羅を信ずる事でありその大曼荼羅中の極説中の最極説たる弘安二年十月十二日御出現の総与の御本尊こそ真の民衆救済の御本体であらせられる(大白蓮華・昭和二九年七月号巻頭言)
 
 大聖人は実践方法として、弘安二年十月十二日の大御本尊を中心として、これに南無することによって、一切の悪い宿業が消えて、よき宿業が生まれるのであると結論されたのである(大白蓮華・昭和三二年一〇月号一頁)
 
 大聖人様は三十二の御年に、南無妙法蓮華経と、清澄山でお唱えあそばして、二十七年で、今のお山の大御本尊様を、御建立なさった。それが十月十二日です。その大御本尊様を、われわれは拝んでいるんです(中略)『余は二十七年なり』とおっしゃって、おしたための御本尊様こそ今の奉安殿の御本尊様であらせられるのですぞ。御立派なものですよ。あの大御本尊様を拝んだら、生命が延びるとまで、いわれているのです。立派な大御本尊です。そりゃ、拝まにゃわからんぜ。拝んでもわからんかも知らん。聞いてもわがらんかも知らん。ただ無二の信心で拝すべきです(大白蓮華・昭和三二年一二月号三頁)
 
 ○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
 本門戒壇の大御本尊を信じ奉らない者は、すべて謗法として禁じなければならない(戸田城聖全集五―一五六頁)
 
 ○御本尊書写の権能は御法主上人にある
 大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ(大白蓮華・昭和三四年七月号九頁)
 
 
 

《池田大作指導》


 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります(会長講演集三-一〇三頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 
 日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである(広布と人生を語る三―二四六頁)
 ○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
 十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします、大仏法のありがたさを、一人、感ずるものである。この弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様のみが、全世界の人々が、

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信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである(大白蓮華・昭和三五年一〇月号七頁)
 
 末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである(御義口伝講義下二三八頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
 大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和のカギはこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない(大白蓮華・昭和四五年一一月号一〇頁)
 
 日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである(立正安国論講義七七一頁)
 
 ○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくだざるのである(広布と人生を語る一―一一二頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである(日蓮大聖人御書十大部講義五―三六二頁)
 
 O大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
 大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります(会長講演集ニ―五六頁)
 
 大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります(会長講演集九―二一八頁)
 ○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
 わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます(大白蓮華・昭和三五年六月号七頁)
 
 もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります(聖教新聞・昭和五五年四月二日付)
 
 大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない(聖教新聞・平成五年九月一九日付)
 
 日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである(広布と人生を語る一―一三一頁)
 
 社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
 一、三大秘法の大御本尊がいっさいの根本であると拝していくことだ。
 二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法

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義を確実に体していくことだ(中略)この大原則を離れて、大聖人の仏法はありえない(広布と人生を語る三―二七一頁)
 
 ○戒壇の大御本尊を信じよ
 唯々、弘安二年十月十二日の大御本尊に題目を唱えきって行く事のみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである(大白蓮華・昭和二九年六月号二二頁)
 
 私たちは、いま幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理・方法とは何か。申すまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年十月十二日の三大秘法の大御本尊様に唱題することにつきるのである(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊様を、しっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある(大白蓮華・昭和三六年一二月号八頁)
 
 信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対と信じたてまつり、いかかる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである(広布と人生を語る一―一三二頁)
 信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである(広布と人生を語る三―九八頁)
 
 ○戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな
 一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄)です(会長講演集九―三二三頁)
 
 末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである(日蓮大聖人御書十大部講義五―二七四頁)
 
 「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる中傷非難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の大信心に厳然とたつべきである(講座教学研究ニ―一二頁)
 
 大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです(会長講演集一〇―一九二頁)
 
 ○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
 大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる(会長講演集八―一六七頁)
 
 日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである(御義口伝講義上九四頁)
 
 ○御本尊書写の権能は御法主上人にある
 
 日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る三―二五六頁)
 
 

《折伏教典》


 
 ○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることに間違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人のご遺志を継ぎ、一切民衆を救わんとするものである。されば、これは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である(改訂二三版二一八頁)

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 ○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
 根本の本尊たる一閻浮提総与の大御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱題することによって、末法の一切衆生は救われるのである。この一閻浮提総与の大御本尊は弘安二年十月十二日にあらわされ、この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は根本的に幸福にはなれないのである(改訂二三版七〇頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人のお教えである(改訂二三版三二九頁)
 
 ○戒壇の大御本尊を信じよ
 弘安二年の本門戒壇の大御本尊に帰依したてまつる以外に、成仏得道の道は絶対にないのである(改訂二三版一二四頁)
 戸田先生は学会再建いらい十四年間、先代会長牧口先生の御意志を受けつがれ、ひたすら大御本尊様への御幸公に身を捧げ、御本山をお守りする真心一筋に貫かれた。その粉骨砕身のお働きは、かねがね日昇上人様にも、日淳上人様にも、「戸田は決して一宗一派を開く者ではございません。ただ生命の続く限り御本山へ忠誠一途につくすのみであります」と言上しておられた通りの御振舞であられた(中略)すなわち日蓮正宗の良き檀那、大信者として、偉大な御一生を貫ぬかれたのであり、「お前たちもこのようにせよ」と示されたのである(校訂再版三六七頁)
 
 ○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
 いま末法にはいって日蓮大聖人のご本懐は弘安二年であるということは、一閻浮提総与の大御本尊の建立をさしているのである。この御本尊に対したてまつって唱えるお題目以外の題目は、すべて、仏説に反することは明らかである(改訂二三版三一一頁)
 この大御本尊に直結したお曼荼羅を拝む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや、生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を感得することなどは、とうてい望めないことである(改訂二三版三一三頁)
 

電灯にたとえて考えてみると(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である(改訂二三版三一三頁)


 
 大御本尊は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)とおおせられているごとく、大聖人ご自体として拝すべきであるから、富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである(改訂二三版三一四頁)
 
 ○日蓮正宗の御本尊以外は天魔外道
 日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である(改訂二三版三一頁)
 
 ○御本尊書写の権能は御法主上人にある
 信仰の対象としていっさいをささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下おひとりが、おしたためあそばされるものであり、われら信者がうんぬんすべきことではないのである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。これは不相伝なるがゆえに仏法の深義に迷うのであって、不相伝家はみな本尊に迷うということができる(改訂二三版三一五頁)

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《その他)


 
 ○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。私たちが家庭へ頂いて一家で信心している御本尊とはその意義が異るのです(大白蓮華・昭和三二年四月号三一頁)
 
 ○三大秘法とは戒壇の大御本尊
 本門の題目とは、本門の本尊、すなわち日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に顕わされた一閻浮提総与の大御本尊を信仰の対象として唱えるべきものです(創価学会入門三八三頁)
 
 ○三大秘法とは大御本尊
 大聖人の仏法は三大秘法ですが、その根本は弘安二年十月十二日に御図顕された本門戒壇の大御本尊です。それは、本門の大御本尊に向かって唱える題目が本門の題目、本門の本尊を安置する所が本門の戒壇だからです(改訂版創価学会入門一〇〇頁)
 
 ○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
 戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません(特別学習会テキスト五六頁)
 
 ○他門流に三大秘法はない
 現在、日蓮宗と名のる宗派は多数あります。しかし彼らには、大聖人の仏法の中心である本門の本尊もなければ、実践論の目標である本門の戒壇もありません。根本の思想なく、また実践の方途のない宗教に、民衆を力強く再生させるなんの術もないことはいうまでもありません(創価学会入門二四ニ頁)

 付録2
 
 創価学会会則(創価学会公式サイトより抜粋)
 【前文省略】
 第1章 総則
 (名称)
 第1条 この会は、「創価学会」という。
 (教義)
 第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。
 (三代会長)
 第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である。
 (目的)
 第4条 この会は、日蓮大聖人の仏法に基づき、弘教および儀式行事を行ない、会員の信心の深化、確立をはかることにより、日蓮大聖人の仏法を世界に広宣流布し、もってそれを基調とする世界平和の実現および人類文化の向上に貢献することを目的とする。
 (創価学会本部)
 第5条 この会は、前条の目的を達成するため「創価学会本部」を設置し、これを東京都新宿区信濃町に置く。
 (会館等)
 第6条 この会は、学会精神の継承と信仰活動の推進に供するため、会館、研修道場その他必要な施設を設置する。
 
 第2章 名誉会長および会長
 (名誉会長)
 第7条 この会は、総務会の議決に基づき、名誉会長を置くことができる。
 (会長)
 第8条 この会に、会長を置く。
 (地位)
 第9条 会長は、この会を統理する。
 (権限)
 第10条 会長は、次に定める会務を行なう。(1)教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重するものとする。(2)御本尊に関する事項を司る。(3)儀式行事を主宰する。(4)この会則の定めるところにより、理事長、副理事長、副会長等を任免する。(5)総務会を招集する。(6)会則の改正を公布する。(7)前各号のほか、この会則およびこの会の規程で会長の権限と定められている事項ならびに他の機関の権限に属さない一切の事項。
 (選出)
 第11条 会長は、総務の中から会長選出委員会が選出し、最高指導会議の承認を得るものとする。
 (任期)
 第12条 会長の任期は、5年とする。      【以下省略】

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付録3
 会則改変に関する原田会長の説明
 (聖教新聞・平成26年11月8日付)
 【挨拶部分および前文省略】
 「これまでの条文では『この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする』となっておりました。
 この会則は平成14年(2002年)に改正されたものです。
 当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実戦に励んできた会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この
 『一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊』については、『弘安2年(1279年)の大御本尊』を指すとの説明を行っていました。
 それを今回、次の通りにいたします。
 『この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする』」
 「最初の『この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ』は、従来の会則から表現に変更はありません。
 次の『根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ』という部分について説明いたします。大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇として具体的に顕されたのであります。
 末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』であります。
 そして、『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』であり、その唱える場がそのまま『本門の戒壇』となります。」
 「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも"電源と端子"の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります。
 大聖人の仏法における信仰の本義は、『根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法』を信じることにあります。具体的には、広宣流布を願い、御本尊を受持し弘めるという自行化他の実践であり、それは日々の学会活動そのものであります。そのことを『御本尊に自行化他にわたる題目を唱え』と表現いたしました。」
 
 「『受持』とは、『受持即観心』の法理に示される通り、南無妙法蓮華経という根本の法が具現された御本尊を信じ、唱題することによって自身の内にある仏界が涌現するのであります。したがって、御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮されるのであります。
 大聖人の御本尊は、『法華弘通のはたじるし』、すなわち民衆救済のための御本尊であり、広宣流布のための御本尊であります。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます。創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。」
 「宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大法宝の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。」
 「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
 したがって、会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大諸法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。」
 「学会員が各人の御本尊に自行化他にわたる唱題をし、それによって自身の人間革命を成就し、世界広宣流布を実現するという学会活動の基本は、これまでと何ら変わりません。」
                   【以下省略】

―--↓P140↓-------------------------------------
付録4 創価学会問題の略年表
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―--↓P144↓-------------------------------------
―--↓P146↓-------------------------------------
―--↓P148↓-------------------------------------
―--↓P150↓-------------------------------------
・・・・以下作業未完なるも取り急ぎUPす m(..)m

《奥付》


大御本尊への信仰を捨てた
      創価学会をただす
 ―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会―

 平成二十七年一月二十八日 発 行
 平成二十七年二月七日 第二刷

   編集 日蓮正宗宗務院
   発行 静岡県富士宮市上条五四六番地の一
      ㈱大日蓮出版
   印刷 ㈱きうちいんさつ


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