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大石寺と身延山久遠寺の違い
皆さんこんにちは。只今はこの法話会においで頂き誠に有り難う御座います。大石寺は今桜花爛漫の時期です。お花見に来られた方もいらっしゃるかも知れませんが、折角大石寺に来られたのですから今日は少し勉強していって頂きたいと思います。
さてこの大石寺は日蓮大聖人の仏法を現代にまで伝える唯一の寺院であり、この大石寺を総本山とする宗教が日蓮正宗であります。
以前久遠寺と大石寺はどう違うの?と聞かれたことがあります。これは大事なことなので今日はそのお話を致しましょう。
ご存じの通り、宗祖の日蓮大聖人は鎌倉時代に生まれた御僧侶であります。出家して比叡山を始めとしてあちこちで勉強をして、仏教の宗派はいくつもあるけれども一番根本なのは法華経なんだ、と悟られました。
そして、故郷の千葉県に帰って、諸宗は邪宗であって不幸の根源であり、法華経の題名でもある南無妙法蓮華経と唱える事が正しい修行であると訴えて、立宗宣言をされました。
さて、その当時正嘉の大地震という大災害がありまして鎌倉は大打撃を受けました。
まぁ今で言えば東日本大震災のような感じですよ。
多くの人が犠牲になり、日蓮大聖人は何故このような悲惨な災害が起きるのか、全てのお経を読み直して、やっぱり世間一般が一番根本の法華経を蔑ろにして、念仏真言禅宗等の邪宗を信心しているから仏罰が当たったのだ、ということを確信し、様々なお経を証拠として『立正安国論』という論文にまとめて鎌倉幕府の偉い人に送りました。
この『立正安国論』を書いて居る時に入門したのがこの大石寺を作った日興上人という方です。
さて『立正安国論』には大地震の原因だけでなく、このまま邪宗の信心をやめず、法華経を信じないならば今後は、仏法を守る神様の計らいで、他の国が押し寄せて来るぞ、国内では同士討ちが起きるぞ、という予言がされていました。
しかし念仏真言禅宗等の邪宗を信心していた武士達は面白くありません、日蓮大聖人は逮捕され伊豆の伊東に島流しになったり、故郷では斬り殺されそうになったりして迫害を受けました。
そうする内に、ご存じの通り蒙古襲来ですよ。初めに蒙古は使者を送って自分たちの家来になれと日本を脅してきたのです。
これを見た日蓮大聖人は『立正安国論』で予言していた他の国が攻めてくるぞ、というのが本当に起こったのだから、法華経を信じなきゃダメだ、と改めて幕府や鎌倉の邪宗の大寺院に書いて送ったのです。
またその頃は日照りが続いて人々は困っていました。その雨乞いを邪宗の良観がやっていたので、日蓮大聖人は勝負を挑みました。
良観が降らせられなかった雨を大聖人はさっと降らすことが出来たので、面目を潰された良観はあちこちに大聖人の悪口を言いふらしてお侍達の不満を増大させていました。
これらが相俟ってでしょうか、日蓮大聖人はまた乱暴に逮捕されました。
そして佐渡に島流しという判決になりましたが、佐渡島へ行って生きて帰った人は居ません。生きて帰ってこないのなら、どうせなら今晩頸斬ってしまえ、と竜口という所で処刑されそうになった正にその瞬間、不思議な発光物体が海の方から飛んで来てたまげた武士達は度肝を抜かれてしまって大聖人を処刑することが出来ませんでした。それで当初の判決の通り佐渡島へ連れて行かれることになりました。
とまぁこの様に日蓮大聖人は迫害の連続だった訳ですが『立正安国論』提出からずっとお師匠様である日蓮大聖人の側でお仕えしたいたのは日興上人です。この後、佐渡にもお供しています。
三月のライオンというマンガがありましたが、将棋の内弟子は師匠と寝起きを共にして最初は中々駒を握らせてくれないそうです。外弟子はテクニカルな事を教わってどんどん先に行くのですが、しかし内弟子はひとたび駒を握り始めるやメキメキと頭角を現して師匠を凌駕する程強くなるのだそうです。それは師匠の考え方や感覚が身に染みついて来るからで、やはり常随給仕ということは何にも況して大事なことなのです。
ここで日蓮大聖人の御法門をざっくり整理しますと、
1、法華最勝、法華経こそが仏法の精髄であり、
2、謗法厳誡、法華経以外の諸宗は地獄行きの教えであり信じても救われないからやってはダメだ、
3、神天上法門、日本守護の神々は法華経の信心が繁盛すると元気になるが、法華経が蔑ろにされているので堪らず天上世界へ去ってしまってる。だから神社には悪鬼魔神が住み着いている
ホントにざっくりですが、こういう主張をされていました。
さて、生きて帰った人は居ないと言われた佐渡流刑も日蓮大聖人は不思議にも生きて還ってきました。そして幕府の武士に呼び出され、蒙古はいつ攻めてくるんだ、ほかの坊主や神主たちと必勝祈願をするなら褒美をくれてやるぞ、という申出を蹴って、
法華経を信じなきゃダメだと言っているのに、邪宗も一緒に必勝祈願だなんてとんでもない。
国で一番偉い人を三回諫めても話を聞いてくれないなら隠居すべきだ、というこれは中国の古訓か何かですかね、そういう先例があるから自分はもう山に引きこもる、と言ってその場を去るわけです。
そして佐渡から帰ってお住まいになったのが山梨県の身延なのであります。
それはどういう経緯かというと、またここで日興上人の出番です。身延という所を治めていたのは地頭の波木井実長というお侍です。この人は日興上人の教化によって法華経の信者となっていました。だから日興上人が日蓮大聖人をお招きして、身延にお住まい頂いたのです。
日蓮大聖人は最初定住するつもりはなかったようで、
「大体この身延は居心地が良いのでしばらくは居ようと思うけども、結局は一人で流浪することになるだろうなぁ」
たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。(富木殿御書七三〇)
と書き送っています。また
「もし地頭、つまり波木井実長さんが信心をやめたら自分はここを出て行くよ」
「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事 歴全一-一一三)
とも仰っていました。
しかし結局、八年余り身延にお住まいになり弟子の育成と布教をされていました。日興上人も身延を起点として縁故の富士市やこの大石寺の建つ上野地区などにも布教を展開し、お百姓さんや邪宗の寺のお坊さん、神社の神主さんなどが次々日蓮大聖人の教えに入信していきました。
これがまた様々な迫害を引き起こしました。
弘安二年のことです。
富士市の方でお百姓さんが二十三人逮捕され鎌倉へ連れて行かれてしまいました。そこで南無妙法蓮華経をやめないなら殺してしまうぞ、と脅されましたが、それでも信心を捨てなかったその方達は実際三人、首を切られて殺されてしまいました。残った人々の中には女性も居ましたがそれを見て泣いています。武士達は
所詮百姓の女などは弱い者だ、仲間が殺されて泣いてやがる
と笑いましたが、その女性は
仲間が殺されて泣いているのではない、首を切られた三人は成仏したのだ。私はそれに遅れたのが悔しくて泣いているのだ。バカにするな
と言い返して武士達はキョトンとしたそうです。それでかどうか、残りの二十一人は家に帰されました。
殺された三人は一年前に入信したような初心者です。にもかかわらず命がけで信心をしようという覚悟を見せたのです。
身延でこの事件の報告を聞いた日蓮大聖人は今こそ出世の本懐を果たす時だ、とて御自分の魂を込めて本門戒壇の大御本尊をお書き顕しになりました。この御本尊こそが今の大石寺の核で御座います。一番根幹の法体であります。日蓮大聖人の仏法の一切はこの御本尊に凝縮されるのです。
その三年後、日蓮大聖人は寿命を感ぜられ身延のことは日興上人に後を譲り、最後の旅に出られます。
その時の譲り状が『日蓮一期弘法付嘱書』です。大事な所なので紹介しますと、
という遺言です。ずっと日蓮大聖人のお側で仕え、暇があると布教に出かけ、日蓮大聖人様は単なる僧侶ではない、末法に生まれた仏様なのだと崇拝した日興上人を日蓮大聖人が認められたからこそのお譲りであります。
日蓮大聖人はこの譲り状の後、常陸の湯と言いますから茨城県の方へ湯治に出かけられたのですが、その途中、今の東京大田区池上でお亡くなりになりました。段々衰弱される中、最後はやはり『立正安国論』を講義され、各地のお弟子たちもお見舞いに集まってきました。大聖人は主立った弟子六人を定め、その上で『身延山付嘱書』という相承を以て改めて日興上人を後継者と定められたのです。またこれも大事なので紹介しますと
というものです。日興上人は久遠寺の次期住職であり、日興上人に背く者は僧侶であれ俗人であれ罰当たりの者である、と定められたのであります。
これを受けて、日興上人は門弟を指図して立派に日蓮大聖人のお葬儀を済ませ、お骨を身延に持ち帰って埋葬したのです。
日蓮大聖人は師匠にして仏様ですから、常にお墓の掃除をし線香やお樒を供え、読経唱題して供養するのは当然です。これを一ヶ月毎の当番で致しましょう、と取り決めましたが、日興上人以外の五老僧はサボって身延山に参詣せず、あろう事か千葉県や神奈川県の自分たちの拠点で、仏像を作ったり、神社に参詣したり、大聖人は伝教大師の末弟で、自分たちは天台宗なんだと言ったり非常にトンチンカンなことをやり始めましたから、日興上人は怒って日蓮大聖人の一周忌法要には来なさいと命じますが、それでも来ない。
その後三回忌法要が近づいて、自分で師匠の恩に報いるのが仏法であると人々に教えておきながら、師匠の三回忌に来ないというのはあってはならないことだ、と責めますとようやく千葉県から六歳年下の民部日向というのがやってきました。
日興上人は喜んで学頭という身延山で二番目に偉い役に就けましたが、しかしこの日向という坊主は実はとんでもない坊さんで、地頭の波木井実長が神社に参拝したいというと、どうぞどうぞどんんどんお行きなさいと勧める。仏像を作りたい、念仏の供養塔の寄進したい、などという大聖人の教えに反した罰当たりな行為を次々と許してしまったのです。
日興上人はそれは間違っている。大聖人の教えはそうではないぞ、と注意しましたが聞き入れません。
民部日向も本来日興上人しか書いてはいけない曼荼羅を勝手に書いて、その祝いに酒を出され、願主の奥さんや娘さんに酒を注がれると調子に乗って大声で歌い出すなど、恥ずかしい不行跡をしてのけました。
そして終に波木井実長は
「自分の師匠は日興上人ではなく、民部日向さんである」、
と言い放つに至りまして、日興上人はもうこの身延に居ては日蓮大聖人の仏法を守り通すことは出来ないと覚悟されたのです。
まぁ先ほどの御遺言にも「富士山に本門寺を建てよ」とありましたしね。
それで本門戒壇の大御本尊や日蓮大聖人のお骨を初め、大聖人のお書き物や御本尊などの大事な宝物を持って身延山を去ったのです。
さて、じゃぁ身延に後に残ったのは何か?
大聖人から何も譲られていない、罰当たりな考えを持った僧侶と、その僧侶の軟弱な唆しを有り難がるこれまた罰当たりなお侍の一組です。
それが世俗権力に迎合して大聖人の仏法のマネばかりをして、その実中身が何にも分かっていない身延山久遠寺の始まりなのです。
流れの源が濁っていれば、途中からキレイになる道理はありませんから、今でも当然濁ったままなのです。
一方、身延を去った日興上人様は古くから教化していた南条時光という殿様に招かれて、今のこの大石寺が建つ大石が原の寄進を受けて、大石寺を開かれたのです。
ご覧の通り、南には遙か駿河湾をを望み、北は雄大な富士山に抱かれた名勝の地であります。
もちろんここには日蓮大聖人の御法魂の本門戒壇の大御本尊を安置し、日蓮大聖人のお墓を作り直し、日蓮大聖人の教えられたそのままの信心を伝えているのであります。
政府が発行している『宗教年鑑』という本を開いてみてください。インターネット上で閲覧が可能です。『日蓮正宗』は開闢以来どこからも分派せず、日蓮教団で唯一独立を保持してきた宗団です。
日蓮正宗について行けずに破門されたり、飛び出したりした団体は創価学会や顕正会、古くは身延日蓮宗もそれに該当しますが、日蓮正宗がどこかの傘下に入ったことは一度たりともありません。
この事からしても、大石寺にこそ末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の仏法が脈々と伝えられていることが明白であります。
今や身延日蓮宗は自分たちの本尊が曼荼羅なのか仏像なのか決められず、
信者の喜ぶことなら信仰の対象物すら鬼子母神や帝釈天などゴチャゴチャと諸天や菩薩を並び添えたりして曲がりまくっています。
これではいくら南無妙法蓮華経を唱えても功徳を頂くどころか仏罰が当たるばかりです。
ですから、今大石寺にお参りした皆さんはとても幸運なのです。
どうでしょう、身延山久遠寺と大石寺の違いがお分かりになったでしょうか。何だか久遠寺の悪口ばかり言っているように感じられたかも知れませんが、間違った宗教ほどたちが悪いものはありません。御為ごかしてその人を不幸に陥れるのですから。
例えば世の中にどれだけ人殺しなどの悪人が増えたとしても、悪人が市民権を得て人殺しが正当化されることはありません。
それと同じように、どれだけ寺院が立派で数が多かったとしても、信者が多く居たとしても間違った宗教が正しいとされる道理は全くないのです。この辺は民主主義の原理が適用されてはいけない分野なのです。
極端な例を挙げればイスラム国やオウム真理教のような宗教が大手を振って日本社会にあったとしたら不幸以外の何物でもありません。皆さん、そうは思いませんか。
宗教はあくまで正しいか間違っているか、なのです。そして正しさとは宗祖・開祖から確実な血脈相承がなされているかどうかにあるのでありまして、聞こえの良い平和や平等、文化等の美辞麗句で飾り立て、そのくせ宗教の中身が全くない邪教は教祖の個人的好き嫌いや損得勘定が根底に横たわっていて百害あって一利なしなのです。
そんなものに騙されて今世を無駄にするのはとても愚かしいことです。
日蓮正宗では本門戒壇の大御本尊、これこそが大聖人からの血脈相承の証拠とされているのであります。
この大御本尊こそ全ての人々を幸せに導く根本の御本尊様なのです。
ですからもうお話は終わりに致しますが、皆様方には改めて日蓮大聖人から正しく伝わっている御本尊様に対してお題目を三唱致しましょう。
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
以上をもちまして本日のお話をお終いと致します。
ご静聴ありがとうございました。
以 上
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