顕立正意抄(けんりっしょういしょう*1・新編751)に云く、
又立正安国論に云はく「若し執心飜らず、亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」等云云。今符号するを以て未来を案ずるに、日本国上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し。此等は且く之を置く。日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか。
彼の不軽軽毀の衆は現身に信伏随従の四字を加ふれども猶先謗の強きに依って先づ阿鼻大城に堕し、千劫を経歴して大苦悩を受く。今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。是を免れんと欲せば各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕へよ。若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云。四悉檀を以て時に適ふのみ。我が弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云云。
文永十一年大歳甲戌十二月十五日 日蓮 之を記す
7月16日は日蓮大聖人が『立正安国論』を幕府に上呈し、法華経をも謗る浄土宗の謗法が諸悪の根源であるからこれを絶つべしと訴えた日です。
立正安国論本文には次のようにあります
「但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡くがごとし。汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん」(248)
主人の言っている事――浄土宗などの謗法が諸悪の根源でありこれを対治することが人心荒廃、天変地夭を治めることになるのだ――、という事を理解した客に対して、
「あなたは今はそのように確信したけども、きっとそのうち忘れてしまうに違いないよ」
と言っているのです。これは凡夫の浅はかさで、きっと御本仏様の目から見たら随分不確かなものに見えるのでしょう。
全くその通りです。
思うに、この安国論の部分を仰ったのではないでしょうか、
冒頭に掲げた顕立正意抄の御文を拝するに、
不軽菩薩の但行礼拝に反感を持ち彼を謗っていた上慢の四衆は、不軽の臨終に神々しい成仏の相を目の当たりにして忽ちに翻意して不軽を崇めたけれども、それまでの誹謗の罪によって200億劫三宝無縁の生活を送って悪業を積み上げ、その結果として阿鼻地獄に落ちて更に千劫苛まれた。(開結504)
という不軽菩薩の故事を引き合いにして、例え大聖人の弟子を名乗っていようとも、心の底から信心していない者は、千劫とは行かないまでも、阿鼻地獄行きは免れないぞ。それがイヤなら、身心を投げ出して信心に励め。信心が足りない者は死に際に地獄行きの人相を現して地獄に落ちるだろう。その時私・大聖人を恨むでないぞ、
――という仰せです。
なんちゃって信心。やってるつもり信心。自分なりに頑張ってる信心――ではダメなのです。
御本尊様を御安置、当然です。
朝晩勤行、当然です。
唱題折伏、もっとしましょう。
やらない人よりマシ? 退転です。
出来る状況にありません? 撤退です。
ムリです! ←謗法です
たとえ自分だけはこの信心を全うしたとしても子々孫々まで伝えられるかどうか、これが一代法華と揶揄される所以であり、本宗の信心が厳しいことの一面です。
しかし、南無妙法蓮華経の信心はこの、為し難きを為す所に成仏という絶大な果報を頂けるのであって、しかも、この信心以外に成仏できる方法は無いのです
安国論にはこう続きます
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ」(248頁)
これは「南無妙法蓮華経が正しいのね、ふーんφ(..)m メモメモ」で終わっていてはイケナイんだぞ、という御指南であります。
凡夫は忘れやすい動物です。泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚のように、折伏をし続けなければ、この南無妙法蓮華経の信心は死に絶えてしまうのだぞという御命と受け止めました。
だったら、進むしかないじゃないですか。
励みましょう、日々の信心を!
導きましょう、謗法の人を!
*1 我々平僧は何となく「けんりゅうしょういしょう」と呼んでいましたが、ある時、日顕上人からこれは「けんりっしょういしょう」と読むのだと教えて頂きました。読み方一つにしても御相伝です。有り難いことです。

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