折伏を行ずる人は福無量なり

2017/04/16up

大日蓮 昭和四三年五月号二三頁より
昭和四十三年四月六日
御虫払大法会布教講演会於御影堂

折伏を行ずる人は福無量なり

布教師会長 柿沼広澄
 折伏とは創価学会発行の仏教哲学大辞典によりますと、破破折屈伏の義と解されております。折伏の折の「おる」とは悪い心を折ることであり、伏とは良い心に伏せしむることだと平易に解釈しておリます。自分が正しい仏法を知ったよろこびを、他人に話して、他人の不幸の解決につくすことが、折伏であると言われておリます。
 他人の不幸の解決につくすのが折伏だとするならば、折伏する人は勿論相手を幸福にし、自分自身も幸福であるとの自覚にたっていなければ、他人の不幸を救うと言うことは出来ない筈であります。故に折伏を行ずる人は折伏を行ずる前に、その人が、信心にみちみちて、幸福感にあふれた、信仰生活の体験者たることが必要であります。
 ですから、折伏は思いつきでは出来ませんが、さりとて、余り考えすぎても出来ません。
「彼奴が、こういったら、こう言うてやろう、こうきたら、こうだ」
なぞと詰将棋でもやってるように考えたって、折伏は出来ません。「こうきたら、ああだ、ああきたら、こうだ」と自分を折伏しているのですから、これは出来ない筈です。
 ですから、余り学問をしすぎた人とか言う人で、折伏の上手な人はおらないものです。
 折伏というものは、前から考えておいたような話には人は感心してくれません。
 あの時、どうしてあんなうまいことが、相手に言えたのだろうと、自分自身が感心するようなことを言えて、始めて人は感心し、折伏されるのです。これを仏智を頂戴したと言います。人は此の仏智に接して始めて感動するのです。
 さて、こう言うことを折伏の時に言いたいのだか、うまく、その場で言えるかしらなぞと心配することはいりません。

 法第経の勧発品に、
「その人、若し法華経に於いて、一句一偈をも忘失する所あらば、我れ当に之れに教えて、ともに読誦し還って通利せしむべし」(開結599頁
とあります。
 即ち折伏中に、法華経の経文を引用したいと思っていて、忘れるような時があったら、仏さまは之れに教えてやると言うのです。即ち、大聖人さまが、横についていて、忘れた部分を教えてやると、法華経に書かれておるのです。
 折伏というものは、信心の発露であるということが、此処(ここ)で言えるのです。
 折伏にでかけていって歓迎されたと言う話は余りききません。悪口雑言にであってこそ普通です。悪口を鶯の声ぐらいにきく修養が出来ていなければなりません。

「君はこれくらいの、ものの道理か分らないのか、馬鹿だなあ」
と一言いって御覧なさい。話はそれで終りです。
「馬鹿とはなんだ」
「馬鹿だから、馬鹿と言うんだ」
「なにを!」
と、戦争状態に入ります。「気違いだ」とののしられた方が、皆様の中におられると思います。
「お前は気違いだ、つまらないことをして、終(しまい)にはなんにもなんらんぞ」
と罵られたことがありませんか。もしあったとしたら、その人は真の折伏の行者です。
 何故ならば、
 「汝は狂人ならくのみ、空しく是の行をなして、終にはうる所なけん。
(汝狂人耳、空作是行、終無取獲)・(開結606)」
と法華経にあります。末法の法華経の折伏者は狂人といって罵倒されると法華経にかかれてあります。狂人だと罵倒される所までいかなければ、真の折伏の行者ではありません。
 悪口罵倒せられる末法の法華経の修行によって、折伏を行ずる人は四法を成就することが出来ます。

 四法とは法華経勧発品に
(一)諸仏に護念せらるること、
 諸天善神の守護が折伏を行ずる人にあるということです。故に相手の地位、財産、智慧等に畏れをいだいてはなりません。
(二)諸々の徳本を植えること、
 諸仏は徳本を植えて仏になれりと言われております。一生成仏のこと即ち成仏するぞと言うことです。
(三)正定聚に入る。必らず悟りをひらく。悟りをひらくが故に次の(四)となります。即ち、
(四)一切衆生を救う心を発せるなり。
 折伏するという実践的行動的が生れてくることを言います。
 折伏を行ずる人は、此の四法を、いつのまにか、成就しておるのです。
 四法を成就するが放に、折伏を行ずる人は福無量なりと言われるのであります。
 『法華経勧発品』には、
「若し後の世に於いて即ち末法に於いて是の経典を読誦せん者は、是の人はまた、衣服、臥具、飲食、資生等の物に貧苦せじ、また現世に於いてその福報を得ん」(開結606
とあります。
 臥具とは「すまい」のことと解することが出来ますから、衣食住及び資生のもの、即ち生活上のすべての必要品に不足がなくて、現世に於いて福報を得るというのであります。

 さて、大聖人さまは、吾々(われわれ)に折伏の時の心構えを指南されております。
 『教行証御書』に、
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし」(1109
と教えられております。
 心構えは大梵王の位において、その実行については、『種々物御消息』に、
「雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ」(1246頁
と教えられております。
 今日は天気がよくて、家に落ち着いて居られないから、一つ折伏にでもいってみようか、なぞ考えて、折伏に出掛たって効果はありません。
 いって御覧なさい。折伏される方だって同じ思いで、天気がいいから家中そろって出掛けようとしている。支度ができて、今でかけようとする所に、ばったりいってみたって、おっぱらわれるだけです。
「こんな雨の中をよくきてくれました。強い風の日に大変でしたねえ」
と相手に言わせたたけで、折伏は半ば成功です。
「雨ふり、かぜふき、人のせいするにこそ心ざしはあらわれ候へ」
と大聖人さまが言われたのは此処です。
 「雨にもまけず風にもまけず」と言えば、宮沢賢治の有名な詩の一句ですが、彼は大聖人さまの信者でしたから、此の御消息をよんでいたかも分りません。
『守護国家論』引用の涅槃経に、
「若し衆生有って財物に貪著せば、我当に財を施して然して後に是の大涅槃経を以て之を勧めて読ましむべし。乃至先に愛語を以て而も其の意に随ひ、然して後に漸く当に是の大乗大涅槃経を以て之を勧めて読ましむべし。若し凡庶の者には当に威勢を以て之に逼りて読ましむべし。若し、・慢の者には我当に其れが為に而も僕使と作り其の意に随順し其れをして歓喜せしむべし。然して後に復当に大涅槃を以て而も之を教導すべし。若し大乗経を誹謗する者有らば、当に勢力を以て之を摧きて伏せしめ、既に摧伏し已はって然して後に勧めて大涅槃を読ましむべし。若し大乗経を愛楽する者有らば、我躬(みずか)ら当に往いて恭敬し供養し尊重し讃歎すべし」已上。(151~2
とあります。
 以上は折伏の種々なる場合をあげて、その折伏の方法をお示しになったもので、味読して活用すべきであります。

 一例をあげまして、大乗経を愛楽するものあらば云云という所を申し上げます。
 折伏にいったら、立派な日蓮正宗の御本尊があったとします。そしてそこの家では、あまり信心をしておる様にはみうけない。そんな時には強言を以って折伏するよりも、自分からその家にでかけていって、お経をよみ、おしきみも、お寺の帰りによりましたから、しきみを上げさせて下さいとお花をそなえ、線香も、もってってやって、自分からお拝んでみせる。そうすることによって、相手が行体の折伏を感じとって、やがては信心をはげむようになるというのです。
 それを鬼の首でもとったように、不信心よばわりをして強折したら、どういう結果になるか、皆さんの方が御存知のはずです。
 大聖人さまは折伏する時の心情、そして折伏のいろいろな場合をのべられておりますが、折伏の時の法義のもってゆき方ものべられております。

『守護国家論』に、
法華経の行者は心中に、四十余年・已今当・皆是真実・依法不依人等の文を存して而も外に語に之を出ださず。難に随って之を問ふべし。抑所立の宗義何れの経に依るや。彼経を引かば引くに随って亦之を尋ねよ。一代五十年の間の説の中に法華経より先か、後か、同時なるか、亦先後不定なるかと。若し先と答へば未顕真実の文を以て之を責めよ。敢へて彼の経の説相を尋ぬること勿れ。後と答へば当説の文を以て之を責めよ。同時なりと答へば今説の文を以て之を責めよ。不定と答へば不定の経は大部の経に非ず、一時一会の説にして亦物の数に非ず。其の上不定の経と雖も三説を出でず。設ひ百千万の義を立つると雖も四十余年等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ふべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。(158~9
 不了義経とは中道実相の理を顕わさない法華経以外の経を言います。
 四十余年未顕真実なぞいう法華経以外の経は真実をのべていない権経の教だという、一切な言葉は、心の中に秘して外の言葉には出さず、問いに随てたづねてゆけという御教旨は折伏する人の必らず心得ておかねばならないことです。
 又大聖人さまは、折伏の時の注意として、
 「和らかに又強く、両眼を細めに見、顔貌に色を調へて閑かに言上すべし」(1107
と『教行証御書』に示されております。
 涅槃経には、
「法を壊る者をみて即ちよく駈遣し呵責し微治せば当に知るべし、是人は福を得んこと無量にして称計すべからず」
とあるを大聖人は『守護国家論』に引用されております。即ち折伏を行ずる人は福無量なりと言うべきであります。
 「法華経流布の国に生れて不信不行は即ち謗なり」(戒体即身成仏義一〇頁
と大聖人は仰せられております。日本国には法華経を不信不行の人々が充満しておるというべきであります。「人の不成仏は我が身の不成仏」と感ずべきだと『一代聖教大意』(95)にあります。
 法華経をすすめる為に諸宗を破すとも謗法にはならず(掲載者註:守護国家論142頁辺りの意か)と、大聖人さまは吾々をはげましております。
 吾々は大聖人さまにはげまされ、大聖人さまの御教示を得て、大いに折伏にはげんでお互いに、称計すべからざる無量の福をつんでゆきましょう。「法華経は時にかなって万巻なり」と言う言葉があります。
 五月六月の折伏は七月の参議選に大勝することが折伏だと心得て、共々にはげましあって邁進いたしましょう。
 「福受けつくすべからず八分目」と言う言葉があります。折伏を行ずるということ、我が身の福運を八分にして、他に福をほどこすことになるのであります。折伏を行ずる人は福無量なりと心得て、尚一層の御精進をお願いいたします。


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