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『戒体即身成仏義』


(★6㌻)
 大乗には心を本体と為すと申すは一往の事なり、実には身口の表を以て戒体を発す。戒体は色法なり、故に大論に云はく「戒は是色法なり」文。故に天台の梵網経疏に「正しく戒体を出だす。第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起こさずんば而已なん。起こさば即ち性なる無作の仮色なり」文。「起こさずんば而已なん」とは、表なければ戒体発せずと云ふなり。「起こさば即ち性なる無作の仮色なり」とは、戒体は色法と云ふ文なり。近来唐土の人師、梵網・法華の戒体の不同を弁へず、雑乱して天台の戒体を談じ失へり。瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪淫戒・第四不妄語戒・第五不酤酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・第八不瞋恚戒・第九不自讃毀他戒・第十不謗三宝戒なり。梵網・瓔珞の十重禁戒・十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒を本と為す。故に涅槃経には具足根本業清浄戒とは是五戒の名なり。一切の戒を持つとも、五戒無ければ諸戒具足すること無し。五戒を持てば諸戒を持たざれども、諸戒を持つに為りぬ、諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず、故に五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。されば天台の釈に云はく「五戒は既に是菩薩戒の根本なり」と。諸戒の模様を知らんと思はゞ、能く能く之を習ふべし。
  第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体なり。唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに、或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。法華経一部八巻二十八品・六万九千三百八十四字、一々の文字、開会の法門実相常住の無作の妙色に非ずといふこと莫し。此の法華経は三乗・五乗・七方便・九法界の衆生を皆毘盧遮那の仏因と開会す。三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。七方便は蔵通の二乗四人、三蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩三人、已上七人。九法界は始め地獄より終はり菩薩界に至るまで、此等の衆生の身を押へて仏因と開会するなり。其の故は、此等の衆生の身は皆戒体なり。但し疑はしき事は、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は戒を破りたる身なり、全く戒体無し。人・天・
 

平成新編御書 ―6㌻―

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