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『戒体即身成仏義』


(★11㌻)
 五戒の身を押へて仏因と云ふ事なり。五戒の我が体は即身成仏とも云はるゝなり。小乗の意、権大乗のおきては、表にて無表を発す。此の法華経は三世の戒体なり。已酬・未酬倶に仏因と説いて、三悪道の衆生も戒体を発得す。竜女が三十二相の戒体を以て知んぬべし。況んや人・天・二乗・菩薩をや。法華経一部に列なれる九界の衆生は、皆即身成仏にてこれ有りしなり。止観に云はく「中道の戒は戒として備はざることなし、是を具足と名づく。中道戒を持つなり」云云。中道の戒とは法華の戒体なり。無戒不備とは、律儀・定・道の戒なり。此の五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと意得る時「欲令衆生仏之知見」と説いて、自身に一分の行無くして即身成仏するなり。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身となる時は、依報の国土も又押へて寂光土なり。妙楽の釈の云はく「豈伽耶を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に娑婆あるに非ず」文。法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮説の事に成りぬ。又妙楽大師の釈に云はく「国土浄穢の差品を見ず」云云。又云はく「衆生自ら仏の依正の中に於て殊見を生じて苦楽昇沈す。浄穢宛然として成壊斯に在り」文。法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅なり。国土も爾の如し。此の国土の牛馬六畜も皆仏なり、草木日月も皆聖衆なり。経に云はく「是の法は法位に住して世間の相常住なり」文。此の経を意得る者は持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得するなり。経に云はく「是を戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」云云。法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知るなり。経に云はく「三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許りも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利なり。故に経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。「我が有」と申す有は、其れ真言宗に非ざれば知り難し。但し天台は真性軌と釈し給へり。舎利と申すは天竺の語、此の土には身と云ふ。我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利なり。されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり。真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故なり。
  法華経を是の体に意得る則んば真言の初門なり。此の国土・我等が身を釈迦菩薩成仏の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土・我等が身を捨てずして、寂光浄土・毘盧遮那仏にて有るなり。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此をこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたるなり。真言の戒体は人之を見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は人をして顕教より密教
 

平成新編御書 ―11㌻―

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