←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『戒体即身成仏義』


(★10㌻)
 失ふは、子が親の頚を切りたるが如し。又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。「則ち一切世間の仏種を断ず」と説くは、法華経は末代の機に協はずと云ひて、一切衆生の成仏すべき道を閉づるなり。「或は復顰蹙」と云へるは、法華経を行ずるを見て、唇をすくめて、なにともなき事をする者かな、祖父が大なる足の履、小さき孫の足に協はざるが如くなんど云ふ者なり。「而も疑惑を懐く」とは、末代に法華経なんどを行ずるは実とは覚えず、時に協はざる者をなんど云ふ人なり。此の比の在家の人毎に、未だ聞かざる先に天台・真言は我が機に協はずと云へるは、只天魔の人にそひて生まれて思はするなり。妙楽大師の釈に云はく「故に知んぬ、心宝所に趣くこと無くんば、化城の路一歩も成ぜす」文。法華経の宝所を知らざる者は、同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじきなり。又云はく「縦ひ宿善有ること恒河沙の如くなるも、終に自ら菩提を成ずるの理なし」文。称名・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさざらん者は、六道四生をば全く出でまじきなり。
  法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。只
 

平成新編御書 ―10㌻―

provided by