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『諸宗問答抄』


(★35㌻)後
迦葉一枝の花房を得たりしより以来出来せる法門なり。抑伝へし時の花房は木の花か、草の花か。五色の中には何様なる色の花ぞや。又花の葉は何重の葉ぞや。委細に之を尋ぬべきなり。此の花をありのまゝに云ひ出だしたる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知るべきなり。設ひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶ふべからず。如何となれば法華経を信ぜざる故なり。此の心は法華経方便品の終はりの長行に委しく見えたり。委しくは引いて拝見し奉るべきなり。次に禅の法門は何としても物に著する所を離れよと教へたる法門にて有るなり。さと云へば其れは情なり、かうと云ふも其れも情なり。あなたこなたへすべり、とゞまらぬ法門にて候なり。夫を責むべき様は、他人の情に著したらん計りをば沙汰して、己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり。云ふべき様は、御辺は人の情計りをば責むれども、御辺情を情と執したる情をばなど離れ得ぬぞと反詰すべきなり。凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり。汝仏祖不伝と云ひて仏祖よりも伝へずとなのらば、さては禅法は天魔の伝へたる所の法門なり如何。然る間、汝断常の二見を出でず、無間地獄に堕せん事疑ひ無しと云ひて、何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都て理におれざるなり、譬へば行く水にかずかくが如し。次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立てよと責むべし。其の道理を立てずして、無理に唯即身即仏と云はゞ、例の天魔の義なりと責むべし。但し即身即仏と云ふ名目を聞くに、天台法華宗の即身成仏の名目づかひを盗み取りて、禅宗の家につかふと覚えたり。然れば法華に立つる様なる即身即仏なるか如何とせめよ。若し其の義無く押して名目をつかはゞ、つかはるゝ語は無障碍の法なり。譬へば民の身として国王と名乗らん者の如くなり。如何に国王と云ふとも、言には障り無し。己が舌の和らかなるまゝに云ふとも、其の身は即ち土民の卑しく嫌はれたる身なり。又瓦礫を玉と云ふ者の如し。石瓦を玉と云ひたりとも、曽て石は玉にならず。

平成新編御書 ―35㌻―

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