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『諸宗問答抄』


(★34㌻)前
有らばこそ、今の譬へは合譬とはならめ。仏は権の金杖を折らずして三度ふり給へるを、機根ありて三つに成りたりと執著し心得たるは、返す返す不心得の大邪見なり、大邪見なり。三度振りたるも法華の体内の権の功徳を、体外の三根に配して三度振りたるにてこそ有れ、全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば、本の体内の権と云はれて、全く体内の円とは成らざるなり。此の心を以て体内体外の権実の法門をば意得弁ふべき者なり。
 次に禅宗の法門は、或は教外別伝・不立文字と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ、或は即身即仏とも云ひて文字をも立てず、仏祖にも依らず、教法をも修学せず、画像木像をも信用せずと云ふなり。反詰して云はく、仏祖不伝にて候はゞ何ぞ月氏の二十八祖・東土の六祖とて相伝せられ候や。其の上迦葉尊者は何ぞ一枝の花房を釈尊より授けられ、微笑して心の一法を霊山にして伝へたりとは自称するや。又祖師無用ならば、何ぞ達磨大師を本尊とするや。修多羅の法無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経・金剛経・円覚経等を或は談じ読誦するや。又仏菩薩を信用せずんば、何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱ふるやと責むべきなり。次に聞き知らざる言を以て種々申し狂はゞ云ふべし。凡そ機には上中下の三根あり。随って法門も三根に与へて説く事なり。禅宗の法門にも理致・機関・向上とて三根に配して法門を示され候なり。御辺は某が機をば三根の中には何れと意得て、聞き知らざる法門を仰せられ候ぞや。又理致の分か、機関の分か、向上の分に候かと責むべきなり。理致と云ふは下根に道理を云ひきかせて、禅の法門を知らする名目なり。機関とは中根の者には何なるか本来の面目と問へば、庭前の柏樹子なんど答へたる言づかひをして、禅法を示す様なり。向上と云ふは上根の者の事なり。此の機は祖師よりも伝へず、仏よりも伝へず、我として禅の法門を悟る機なり。迦葉霊山微笑の花に依って心の一法を得たりと云ふ時には、是尚中根の機なり。所詮禅の法門と云ふ事は、

平成新編御書 ―34㌻―

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