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『十如是事』


(★104㌻)
 
 №0016 十如是事   (正嘉二年  三七歳)
 
  我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今の経に説いて云はく「如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」文。初めに如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云ふなり。是を応身如来とも、又は解脱とも、又は仮諦とも云ふなり。次に如是性とは我が心性を云ふなり。是を報身如来とも、又は般若とも、又は空諦とも云ふなり。三に如是体とは我が此の身体なり。是を法身如来とも、又は中道とも、法性とも、寂滅とも云ふなり。されば此の三如是を三身如来とは云ふなり。此の三如是が三身如来にておはしましけるを、よそに思ひへだてつるが、はや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。此の三如是を本として、是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり。此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり。かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれども、すべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり。其の故は百界と云ふは仮諦なり、千如と云ふは空諦なり、三千と云ふは中諦なり。空と仮と中とを三諦と云ふ事なれば、百界千如三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり。されば始めの三如是の三諦と、終はりの七如是の三諦とは、唯一つの三諦にて始めと終はりと我が一身の中の理にて、唯一物にて不可思議なりければ、本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり。是を如是本末究竟等とは申したるなり。始めの三如是を本とし、終はりの七如是を末として、十の如是にてあるは、我が身の中の三諦にてあるなり。此の三諦を三身如来とも云へば、我が心身より外には善悪に付けてかみすじ計りの法もなき物を、されば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり。
 

平成新編御書 ―104㌻―

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