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『守護国家論』


(★155㌻)
  願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てゝ、法華涅槃の現文に依り、肇公・慧心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ。
  問うて云はく、法華経修行の者何れの浄土を期すべきや。答へて曰く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云はく「我常在此娑婆世界」と。亦云はく「我常住於此」と。亦云はく「我此土安穏」文。 此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在せり。此の土を捨てゝ何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし。何ぞ煩はしく他処を求めんや。故に神力品に云はく「若しは経巻所住の処ならば、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、乃至当に知るべし、是の処は即ち是道場なり」と。涅槃経に云はく「若し善男子、是の大涅槃微妙の経典流布せらるゝ処は当に知るべし、其の地即ち是金剛なり。是の中の諸人も亦金剛の如し」已上。 法華涅槃を信ずる行者は余処に求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり。
  問うて云はく、華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見るに兜卒・西方・十方の浄土を勧む。其の上法華経の文を見るに亦兜卒・西方・十方の浄土を勧む。何ぞ此等の文に違して但此の瓦礫荊棘の穢土を勧むるや。答へて曰く、爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり。法華経は亦方便寿量の二品なり。寿量品に至りて実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。但し兜卒・安養・十方の難に至りては爾前の名目を改めずして此の土に於て兜卒・安養等の名を付く。例せば此の経に三乗の名有りと雖も三乗有らざるが如し。「更に観経等を指すを須ひざるなり」の釈の意是なり。法華経に結縁無き衆生の当世西方浄土を願ふは瓦礫の土を楽ふとは是なり。法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土無き者なり。
  第三に涅槃経は法華経流通の為に之を説きたまふを明かさば、問うて云はく、光宅の法雲法師並びに道場の慧観等の碩徳法華経を以て第四時の経と定め無常熟蘇味と立つ。
 

平成新編御書 ―155㌻―

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