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『守護国家論』


(★160㌻)
 此等の諸人は皆彼々の経々に依って皆証有り。何ぞ汝彼の経に依らず、亦彼の師の義を用ひざるや。答へて曰く、汝聞け。一切の権宗の大師先徳並びに舎利弗・目連・普賢・文殊・観音乃至阿弥陀・藥師・釈迦如来、我等の前に集りて説いて云はん、法華経は汝等の機に叶はず、念仏等の権経の行を修して往生を遂げて後に法華経を覚れと。是くの如き説を聞くと雖も敢へて用ふべからず。其の故は四十余年の諸経には法華経の名字を呼ばず、何れの処にか機の堪不堪を論ぜん。法華経於ては多宝・釈迦・十方諸仏、一処に集まりて撰定して云はく「法をして久しく住せしむ」「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。此の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。知んぬ、此の仏は涅槃経に出だす所の滅後の魔仏なり。之を信用すべからず。其の已下の菩薩・声聞・比丘等は亦言論するに及ばず。此等は不審も無し。涅槃経に記す所の滅後の魔の所変の菩薩等なり。其の故は法華経の座は三千大千世界の外四百万億阿僧祇の世界なり。其の中に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等皆如来の告勅を蒙り、各々所在の国土に法華経を弘むべきの由之を願ひぬ。善導等若し権者ならば何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや、法華経の告勅の数に入らざるや、何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。若し此の義無くんば設ひ仏たりと雖も之を信ずべからず。今は法華経の中の仏を信ず、故に仏に就いて信を立つと云ふなり。
  問うて云はく、釈迦如来の所説を他仏之を証するを実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。答へて云はく、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之を信ぜず。問うて云はく、阿弥陀経を見るに、釈迦如来の所説の一日七日の念仏を六万の諸仏舌を出だし三千を覆ふて之を証明せり。何ぞ証明無しと云ふや。答へて云はく、阿弥陀経に於ては全く法華経の如き証明無し。但釈迦一仏舎利弗に向かって説いて言はく、我一人阿弥陀経を説くのみに非ず、六万の諸仏舌を出だし三千を覆ふて阿弥陀経を説くと云ふと雖も此等は釈迦一仏の説なり、敢へて諸仏は来たりたまはず。此等は権文なり。四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明したまふ。故に之を信ずべし。阿弥陀経の説は無量義経の未顕真実の語に壊れ了んぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。二に経に就いて信を立つとは、無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ。涅槃経に云はく「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因って法利を得ると知れば、宜しきに随って方便して則ち為に之を説きたまふ」と。又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」已上。 是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。
 

平成新編御書 ―160㌻―

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