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『唱法華題目抄』


(★218㌻)
 其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず、当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり、其の人々当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。其の間又つぶさに六道四生に輪回し、今日釈迦如来の法華経を説き給ふに不退の位に入る。所謂舎利弗・目連・迦葉・阿難等是れなり。猶々信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。此の結縁の衆をば天台・妙楽は名字・観行の位にかなひたる人なりと定め給へり。名字・観行の位は一念三千の義理を弁へ、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁へたる人なり。一念随喜五十展転と申すも、天台・妙楽の釈のごときは、皆観行五品の初随喜の位と定め給へり。博地の凡夫の事にはあらず。然るに我等は末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや。是偏に理深解微の故に、教は至って深く、機は実に浅きがいたす処なり。只弥陀の妙号を唱へて、順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給はん時、聞いて悟りを得んには如かじ。然るに弥陀の本願は有智無智・善人悪人・持戒破戒等をも択ばず。只一念に唱ふれば臨終に必ず弥陀如来本願の故に来迎し給ふ。是を以て思ふに、此の土にして法華経の結縁を捨て浄土に往生せんとをもふは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたはざる人の、此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さゞるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて中々法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと申し侍るは如何に。其の上只今承り候へば、僅かに法華経の結縁計りならば、三悪道に堕ちざる計りにてこそ候へ、六道の生死を出づるにはあらず。念仏の法門はなにと義理を知らざれども、弥陀の妙号を唱へ奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の妙号はいみじくこそ聞こえ侍れ。答へて云はく、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候へども、
 
 

平成新編御書 ―218㌻―

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