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『唱法華題目抄』


(★230㌻)
 経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めたり。妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生三無差別と立て給ふ。一切の諸仏・菩薩。十界の因果・十方の草木瓦礫等妙法の二字にあらずと云ふ事なし。華厳・阿含等の四十余年の経々、小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず、又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳を収めず、又王にては有れども王中の王にて無き経も有り。仏も又経に随って他仏の功徳をおさめず、平等意趣をもって他仏自仏とをなじといひ、或は法身平等をもて自仏他仏同じといふ。実には一仏に一切仏の功徳をおさめず、今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり。諸仏諸経の題目は法華経の所開なり、妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱ふべし。 
  問うて云はく、此の法門を承けて又智者に尋ね申し候へば、法華経のいみじき事は左右に及ばず候。但し器量ならん人は唯我が身計りは然るべし。末代の凡夫に向かって、たゞちに機をも知らず、爾前の教を云ひうとめ、法華経を行ぜよと申すは、としごろの念仏なんどをば打ち捨て、又法華経には未だ功も入れず、有にも無にもつかぬやうにてあらんずらん。又機もしらず、法華経を説かせ給はゞ、信ずる者は左右に及ばず、若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕ち候はんずらん。其の上、仏も四十余年の間、法華経を説き給はざる事は「若但讃仏乗衆生没在苦」の故なりと。在世の機すら猶然なり。何に況んや末代の凡夫をや。されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言はく、無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云。此等の道理を申すは如何が候べき。答へて云はく、智者の御物語と仰せ承り候へば、所詮末代の凡夫には機をかゞみて説け、左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ。彼の人さやうに申され候はゞ、御返事候べきやうは、抑「若但讃仏乗乃至無智人中」等の文を出だし給はゞ、
 

平成新編御書 ―230㌻―

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