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『月水御書』


(★301㌻)
 或は又随喜する声を聞いて随喜し、是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり、随喜の心の弱き事、二三歳の幼稚の者のはかなきが如く、牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも他経を学する人の利根にして智慧かしこく、舎利弗・目連・文殊・弥勒の如くなる人の、諸経を胸の内にうかべて御坐しまさん人々の御功徳よりも、勝れたる事百千万億倍なるべきよし、経文並びに天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り。されば経文には「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれて、仏の御智慧すら此の人の功徳をばしろしめさず。仏の智慧のありがたさは、此の三千大千世界に七日、若しは二七日なんどふる雨の数をだにもしろしめして御坐し候なるが、只法華経の一字を唱へたる人の功徳をのみ知ろしめさずと見えたり。何に況んや、我等逆罪の凡夫の此の功徳を知り候ひなんや。
  然りと云へども如来滅後二千二百余年に及んで、五濁さかりになりて年久し。事にふれて善なる事ありがたし。設ひ善を作す人も一の善に十の悪を造り重ねて、結句は小善につけて大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起こす世となれり。然るに如来の世に出でさせ給ひて候ひし国よりしては、二十万里の山海をへだてゝ、東によれる日域辺土の小島にうまれ、五障の雲厚うして、三従のきづなにつながれ給へる女人なんどの御身として、法華経を御信用候はありがたしなんどとも申すに限りなく候。凡そ一代聖教を披き見て、顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも、近来は法華経を捨て念仏を申し候に、何なる御宿善ありてか、此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生まれさせ給ひけん。されば此の御消息を拝し候へば、優曇華を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏しき事かなと、心ばかりは有りがたき御事に思ひまいらせ候間、一言一点も随喜の言を加へて善根の余慶にもやとはげみ候へども、只恐らくは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠し、くもらす事にや候らんと、いたみ思ひ候ばかりなり。
 

平成新編御書 ―301㌻―

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