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『月水御書』


(★302㌻)
 然りと云えども、貴命もだすべきにあらず。一滴を江海に加へ、(嚼-口+火)火を日月にそえて、水をまし光を添うると思し食すべし。
  先づ法華経と申すは八巻・一巻・一品・一偈・一句乃至題目を唱ふるも、功徳は同じ事と思し食すべし。譬へば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり。如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす。百千万億の滴珠も又これ同じ。法華経は一字も一の滴珠の如し。乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。諸経諸仏の一字一名号は、江河の一滴の水、山海の一石の如し。一滴に無量の水を備へず。一石に無数の石の徳をそなへもたず。若し然らば、此の法華経は何れの品にても御坐しませ、只御信用の御坐さん品こそめずらしくは候へ。総じて如来の聖教は、何れも妄語の御坐すとは承り候はねども、再び仏教を勘へたるに、如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申す事、経文より事起こりて候。随って論師人師の釈義にあらあら見えたり。詮を取って申さば、釈尊の五十余年の諸経の中に、先四十余年の諸経は猶うたがはしく候ぞかし。仏自ら無量義経に「四十余年未顕真実」と申す経文、まのあたり説かせ給へる故なり。法華経に於ては、仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てゝ、但無上道を説く」と定めさせ給ひぬ。其の上、多宝仏大地より涌出でさせ給ひて、「妙法蓮華経皆是真実」と証明を加へ、十方の諸仏皆法華経の座にあつまりて、舌を出だして法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成をそへ給へり。譬へば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。若し法華経の一字をも唱へん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば、日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破たる石は合ふとも、江河の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の、世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず。若し法華経を信じたる女人、物をねたむ故、腹のあしきゆへ、貪欲の深きゆえなんどに引かれて悪道に堕つるならば、釈迦如来・多宝仏・  

平成新編御書 ―302㌻―

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