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『善無畏三蔵抄』


(★445㌻)
 親を捨てゝ他人につく失免るべしとは見えず。一向悪人はいまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨て奉る失も見えず。縁有って信ずる辺もや有らんずらん。善導・法然並びに当世の学者等が邪義に就いて、阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人々は、多生曠劫をふるとも、此の邪見を翻へして釈迦仏法華経に帰すべしとは見えず。されば双林最後の涅槃経に「十悪五逆よりも過ぎてをそろしき者を出ださせ給ふに、謗法闡提と申して二百五十戒を持ち、三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れ」と、こまごまと申して候ひしかば、此の人もこゝろえずげに思ひておはしき。傍座の人々もこゝろえずげにをもはれしかども、其の後承りしに、法華経を持たるゝの由承りしかば、此の人邪見を翻し給ふか、善人に成り給ひぬと悦び思ひ候処に、又此の釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし。当座には強げなる様に有りしかども、法華経の文のまゝに説き候ひしかばかうおれさせ給へり。忠言耳に逆らひ良薬口に苦しと申す事は是なり。
  今既に日蓮師の恩を報ず。定んて仏神納受し給はんか。各々此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし。仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。当世学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思し食したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし。例せば此の道善御房の法華経を迎へ、釈迦仏を造らせ給ふ事は日蓮が強言より起こる。日本国の一切衆生も亦復是くの如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を書き造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀は伊蘭より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば、当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは、
 

平成新編御書 ―445㌻―

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