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『善無畏三蔵抄』


(★444㌻)
 在家の信をなせる事なれば、彼の邪見の宗を扶けんが為に天台真言は念仏宗禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり。此は日蓮を破する様なれども、我と天台真言等を失ふ者なるベし。能く能く恥づべき事なり。
  此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるベし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況んや人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す。而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり、三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云はく、我智慧なければ請用の望もなし、年老ひていらへなければ念仏の名僧をも立てず。世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此の科るに依って地獄に堕つべきや等云云。
  爾の時に日蓮意に念はく、別して中違ひまいらする事無けれども、東条左衛門入道蓮智が事に依って此の十余年の間は見奉らず。但し中不和なるが如し。穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼義なれと思ひしかども、生死界の習ひ、老少不定なり、又二度見参の事難かるべし。此の人の兄道義房義尚此の人に向かひて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが、臨終思ふ様にもましまさゞりけるやらん。此の人も又しかるベしと哀れに思ひし故に、思ひ切って強々に申したりき。阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし。其の故は正直捨方便の法華経に、釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ。我が伯父をば五体まで作り供養させ給ひて、親父をば一体も造り給はざりけるは、豈不孝の人に非ずや。中々山人・海人なんどが、東西をしらず一善をも修せざる者は、還って罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打ち捨て、阿弥陀仏念仏なんどを念々に捨て申さゞるはいかゞあるべかるらん。打ち見る処は善人とは見えたれども、
 

平成新編御書 ―444㌻―

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