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『十章抄』


(★466㌻)
  「故に知んぬ一部の文共に円乗開権の妙観を成ず」と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき、乃至外典を用ひて候も爾前・外典の心にはあらず。文をばかれども義をばけづりすてたるなり。「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して、文殊問・方等・請観音等の諸経を引きて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。「諸文を散引して一代の文体を該ぬれども、正意は唯二経に帰す」と申すはこれなり。
  止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。「前の六重は修多羅に依る」と申して、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解、迹門の心をのべたり。「今妙解に依って以て正行を立つ」と申すは第七の正観、十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。
  一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず、何に況んや爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但し真実の依文判義は本門に限るべし。
  されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみるなを円の行なり。何に況んや爾前の教をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱ふるをや。但しこれらは時々の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。
  法華経に十七種の名あり。これ通名なり、別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給ひしなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。
  此等を知らざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ、在家の者は一向に念ふやう、天台・真言等は念仏にてありけり。又善導・法然が一門は、すわすわ天台・真言の人々も実に自宗が叶ひがたければ念仏を申すなり。
 

平成新編御書 ―466㌻―

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