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『十章抄』


(★467㌻)
 わづらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して、浄土にして法華経をもさとるべしと申す。此の義日本国に充満せし故に天台・真言の学者、在家の人々にすてられて、六十余州の山寺はうせはてぬるなり。
  九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一という義の盛んなりしよりこれはじまれり。あわれなるかなや、外道は常・楽・我・浄と立てしかば、仏世にいでまさせ給ひては苦・空・無常・無我ととかせ給ひき。二乗は空観に著して大乗にすゝまざりしかば仏誡めて云はく、五逆は仏のたね、塵労の疇は如来の種、二乗の善法は永不成と嫌はせ給ひき。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ給ひき。悪だに仏の種となる。ましてぜんはとこそをぼうれども、仏二乗に向かひては、悪をば許して善をばいましめ給ひき。
  当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜんたりとも、義分あたれりというとも、先づ名をいむべし。其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あひわかれたり。震旦亦復是くの如し。
  日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何に況んや小乗の三宗をや。
  而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは、源方等部より事をこれり。法相・三論・華厳の見を出づべからず。南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経にをいては得道の行にあらず。開会の後仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず、法華経は能開念仏は所開なり。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏并びに十方の諸仏の功徳を備へたり。
 

平成新編御書 ―467㌻―

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