←次へ
TOPへ↑
前へ→
『八宗違目抄』
(★521㌻)
闇証の禅師・誦文の法師の能く知る所に非ざるなり。蓋し如来積劫の懃求したまへる所、道場の妙悟したまへる所、身子の三たび請する所、法譬の三たび説きたまふ所、正しく茲に在るに由るか」と。弘の五に云はく「四教の一十六門乃至八教の一期の始終に遍せり。今皆開顕して束ねて一乗に入れ、遍く諸経を括りて一実に備ふ。若し当分を者、尚偏教の教主の知る所に非ず。況んや復世間暗証の者をや○蓋し如来の下は称歎なり。十法は既に是法華の所乗なり、是の故に還って法華の文を用ひて歎ず。迹の説に約せば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門只是此の十法を求め、悟るなり。身子等とは、寂道にして説かんと欲するに物の機未だ宜しからず、其の苦に堕せん事を恐れて、更に方便を施す。四十余年種々に調熟し、法華の会に至って初めて略して権を開するに、動執生疑して慇懃に三請す。五千起ち去って方に枝葉無し。四一を点示して五仏の章を演べ、上根の人に被るを名づけて法説と為し、中根は未だ解せざれば猶譬喩を悕ひ、下根は器劣にして復因縁を待つ。仏意聯綿として茲の十法に在り。故に十法の文の末に皆大車に譬へたり。今の文の憑る所、意此に在り、惑者は未だ見ず。尚華厳を指し、唯華厳円頓の名を知って而して彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失ひて妙教独顕の能を貶挫す。迹本の二文を験べ五時の説を検ふれば円極謬らず、何ぞ須く疑を致すべけん。是の故に結して、正しく茲に在るかと曰ふ」と。又云はく「初めに華厳を引くことを者、重ねて初めに引いて境相を示す文を牒す。前に心造と云ふは即ち是心具なり、故に造の文を引いて以て心具を証す。彼の経第十八の中に、功徳林菩薩の偈を説いて云ふが如く、心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり、仏の如く衆生も然なり、心と仏と及び衆生と是の三差別無し。若し人三世の一切の仏を知らんと欲求せば、応に是くの如く観ずべし。心は諸の如来を造ると。今の文を解せずんば、
平成新編御書 ―521㌻―
provided by