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『祈祷抄』


(★634㌻)
 信ずとも豈成仏すべきや。又是を以て国土を祈らんに、当に不祥を起こさざるべきや。又云はく「震旦の人師等諍って醍醐を盗む」云云。文の意は天台大師等真言教の醍醐を盗みて法華経の醍醐と名づけ給へる事は、此の筆最第一の勝事なり。法華経を醍醐と名づけ給へる事は、天台大師涅槃経の文を勘へて、一切経の中には法華経を醍醐と名づくと判じ給へり。真言教の天竺より唐土へ渡る事は、天台出世の以後二百余年なり。されば二百余年の後に渡るべき真言の醍醐を盗みて、法華経の醍醐と名づけ給ひけるか。此の事不審なり、不審なり。真言未だ渡らざる以前の二百余年の人々を盗人とかき給へる事証拠何れぞや。弘法大師の筆をや信ずべき、涅槃経に法華経を醍醐と説けるをや信ずべき。若し天台大師盗人ならば、涅槃経の文をば云何がこゝろうべき。さては涅槃経の文真実にして、弘法の筆邪義ならば、邪義の教を信ぜん人々は云何。只弘法大師の筆と仏の説法と勘へ合はせて、正義を信じ侍るべしと申す計りなり。
  疑って云はく、大日経は大日如来の説法なり。若し爾らば釈尊の説法を以て大日如来の教法を打ちたる事、都て道理に相叶はず如何。答へて云はく、大日如来は何なる人を父母として、何なる国に出で、大日経を説き給ひけるやらん。もし父母なくして出世し給ふならば、釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に、仏出でて説法すべしと云ふ事何なる経文ぞや。若し証拠なくんば誰の人か信ずべきや。かゝる僻事をのみ構へ申す間、邪教とは申すなり。其の迷謬尽くしがたし。纔か一二を出だすなり。加之並びに禅宗・
 

平成新編御書 ―634㌻―

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