←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『木絵二像開眼の事』


(★637㌻)
 又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若を置けば、縁覚とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば、菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼、大日の印・真言は、名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。
  三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云々。故に普賢経に法華経の仏を説いて云はく「仏の三種の身は方等より生ず」文。是の方等は方等部の方等に非ず、法華を方等といふなり。又云はく「此の大乗経は是諸仏の眼なり。諸仏是に因って五眼を具することを得る」等云云。法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かへて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす、是は随他意の声。自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思し食す事なかれ。すなはち仏の御意なり。故に天台の釈に云はく「請を受けて説く時は只是教の意を説く。教の意は是仏意、仏意即ち是仏智なり。仏智至って深し。是の故に三止四請す。此くの如き艱難あり。余経に比するに余経は則ち易し」文。此の釈の中に仏意と申すは、色法をおさへて心法という釈なり。
  法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。故に天台は「一色一香無非中道」云云。
 妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑はし心を驚かす」云云。華厳の澄観が天台の一念三千をぬすんで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。
 

平成新編御書 ―637㌻―

provided by