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『観心本尊抄』


(★650㌻)
 爾前の経々と法華経と之を校量するに彼の経々は無数なり時説既に長し、一仏の二言ならば彼に付くべし。馬鳴菩薩は付法蔵の第十一、仏記に之有り。天親は千部の論師、四依の大士なり。天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず、誰か之を信ぜん。其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも、法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之有りや。随って経文を開拓するに「諸法の中の悪を断じたまへり」等云云。天親菩薩の法華論にも、堅慧菩薩の宝性論にも十界互具之無く、漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し。但天台一人の僻見なり、伝教一人の謬伝なり。故に清涼国師の云はく「天台の謬りなり」と。慧苑法師の云はく「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為し其の名謬濫するを以て」等云云。了洪が云はく「天台独り未だ華厳の意を尽くさず」等云云。得一が云はく「咄いかな智公、汝は是誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説の教時を謗ず」等云云。弘法大師の云はく「震旦の人師等諍って醍醐を盗んで各自宗に名づく」等云云。夫一念三千の法門は一代の権実に名目を削り、四依の諸論師其の義を載せず、漢土日域の人師も之を用ひず。如何が之を信ぜん。
  答へて曰く、此の難最も甚だし最も甚だし、但し諸経と法華との相違は経文より事起こりて分明なり。未顕と已顕と、証明と舌相と、二乗の成不と、始成と久成等之を顕はす。諸論師の事、天台大師云はく「天親・竜樹、内鑑冷然たり、外には時の宜しきに適ひ各権に拠る所あり。而るに人師偏に解し、学者苟しくも執し、遂に矢石を興し各一辺を保ちて大いに聖道に乖けり」等云云。章安大師云はく「天竺の大論すら尚其の類に非ず、真旦の人師何ぞ労はしく語るに及ばん、此誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。然りと雖も時未だ至らざるが故に之を宣べざるか。人師に於ては天台已前は或は珠を含み或は一向に之を知らず。已後の人師は或は初めに之を破して後に帰伏する人有り、或は一向に用ひざる者も之有り。
 

平成新編御書 ―650㌻―

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