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『諸法実相抄』


(★666㌻)
  さればかゝる日蓮を此の島まで遠流しける罪、無量劫にもきえぬべしとも覚えず。譬喩品に云はく「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり。又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其の功徳をば仏の智慧にてもはかり尽くし給ふべからず。経に云はく「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得じ」と云へり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。経に云はく「能く竊かに一人の為に法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈別人の事を説き給ふならんや。されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり。是ほむる処の言よりをこり候ぞかし。末法に生まれて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有って流罪死罪に及ばん。然れどもたへて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給ふべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけせなかにをふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・天神七代・地神五代の神々・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめられぬれば我が身の損ずるをもかへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるヽをもしらずふるまふ事は凡夫のことはざなり。
  いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。
 

平成新編御書 ―666㌻―

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