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『法華取要抄』


(★733㌻)
 此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し。法華経に云はく「爾の時の聞法の者、各諸仏の所に在り」等云云。天台云はく「西方は仏別に縁異なり、故に子父の義成ぜず」等云云。妙楽云はく「弥陀・釈迦二仏既に殊なる○況んや宿昔の縁別にして化道同じからざるをや。結縁は生の如く成就は養の如し、生養縁異なれば父子成ぜず」等云云。当世日本国の一切衆生の弥陀の来迎を待つは、譬へば牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天の月を浮かぶるが如し。又果位を以て之を論ずれば、諸仏如来は或は十劫百劫千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那・大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依って今に覚知せずと雖も他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水に浮かぶが如し。無縁の仏と衆生とは譬へば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向かふが如し。而るに或る人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し、或る人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なりと。或る人師の云はく、小乗の釈尊と、或は華厳経の釈尊と、或は法華経迹門の釈尊と、此等の諸師並びに檀那等釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世太子の頻婆沙羅王を殺し、釈尊に背いて提婆達多に付きしが如きなり。二月十五日は釈尊御入滅の日、乃至十二月十五日も三界の慈父の御遠忌なり。善導・法然・永観等の提婆達多に誑かされて阿弥陀仏の日と定め了んぬ。四月八日は世尊御誕生の日なり、薬師仏に取り了んぬ。我が慈父の忌日を仏他に替へるは孝養の者なるか如何。寿量品に云はく「我も亦為れ世の父、狂子を治せんが為の故に」等云云。天台大師の云はく「本此の土の仏に従って初めて道心を発こす、亦此の仏に従って不退の地に住す。乃至猶百川の海に潮すべきが如く、
 

平成新編御書 ―733㌻―

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