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『可延定業御書』


(★761㌻)
 中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり。命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし。閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生ける犬に劣る。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし。此よりも申すべけれども、人は申すによて吉き事もあり、又我が志のうすきかと、をもう者もあり。人の心しりがたき上、先々に少々かゝる事候。此の人は、人の申せばすこし心へずげに思ふ人なり。なかなか申すはあしかりぬべし。但なかうどもなく、ひらなさけに、又心もなくうちたのませ給へ。去年の十月これに来たりて候ひしが、御所労の事をよくよくなげき申せしなり。当時大事のなければをどろかせ給はぬにや、明年正月二月のころをひは必ずをこるべしと申せしかば、これにもなげき入って候。
  富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃みたるに、なんど申して候ひしなり。随分にわび候ひしぞ。きわめてまけじだましの人にて、我がかたの事をば大事と申す人なり。かへすがへす身の財をだにをしませ給はゞ此の病治しがたかるべし。一日の命は三千界の財にもすぎて候なり。先づ御志をみゝへさせ給ふべし。法華経の第七の巻に、三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・法華経に供養せよととかれて候はこれなり。命は三千にもすぎて候。而るに齢もいまだたけさせ給はず、而も法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをはせば功徳つもるべし。あらをしの命や、あらをしの命や。御姓名並びに御年を我とかゝせ給ひて、わざとつかわせ。大日月天に申しあぐべし。いよどのもあながちになげき候へば、日月天に自我偈をあて候はんずるなり。恐々謹言
                        日  蓮 花押
 尼ごぜん御返事
 

平成新編御書 ―761㌻―

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