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『立正観抄送状』


(★774㌻)
 是の故に還って法華の文を用ひて歎ず。若し迹に約して説かば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門は只是此の十法を求悟す」文。始めの一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。止観は本迹に亘ると云ふ事、文証此に依るなりと云へり。次に檀那流に止観は迹門に限ると云ふ証拠は、弘決の三に云はく「還って教味を借りて以て妙円を顕はす。故に知んぬ、一部の文共に円乗の開権妙観を成ず」文。此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云ふ事、文に在って分明なり。両流の異義替はれども倶に本迹を出でず。当世の天台宗何くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。但予が所存は止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。若し与へて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは、十徳の中の第一は自解仏乗、第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云はく「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云はく「此の止観は天台智者、己心中所
 行の法門を説く」文。弘決の五に云はく「故に止観の正しく観法を明かすに至って、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云はく、説己心中所行法門」文。己心所行の法門とは一念三千・一心三観なり。三諦止観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門の十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。若し奪って之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教の分斉なり。其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。所謂天台大師、大蘇の普賢道場に於て三昧を開発し、証を以て師に白す。師の曰く、法華の前方便陀羅尼なりと。霊応伝の第四に云はく「智顗、師に代はって金字経を講ず。一心具足万行の処に至って、顗、疑ひ有り。思、為に釈して曰く、汝が疑ふ所は此乃ち大品次第の意なるのみ。未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文。講ずる所の経、既に権大乗経なり。又「次第」と云へり、故に別教なり。開発せし陀羅尼、又法華の前方便と云へり。
 

平成新編御書 ―774㌻―

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