←次へ  TOPへ↑  前へ→  

『乙御前御消息』


(★898㌻)
 同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり。木は火にやかるれども栴檀の木はやけず。火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず。華は風にちれども浄居の華はしぼまず。水は大早魃に失すれども黄河に入りぬれば失せず。檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頚を切りしに、とがなかりしかども、師子尊者の頚を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき。弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼きし時、十二神の棒にかふべわられにき。今日本国の人々は法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり。かう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり。さにはあらず、是を云はずば法華経の行者にはあらず、又云ふ事の後にあへばこそ人も信ずれ。かうたゞかきをきなばこそ未来の人は智ありけりとはしり候はんずれ。又、身軽法重、死身弘法とのべて候へば、身は軽ければ人は打ちはり悪むとも、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば死かばね還って重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし。利生あるならば今の八幡大菩薩といはゝるゝやうにいはうべし。其の時は日蓮を供養せる男女は、武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしとおぼしめせ。抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況んや日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや。何に況んや一閻浮提四天下の人の眼のしゐたるをあけて候はんをや。法華経の第四に云はく「仏滅度の後に能く其の義を解せんは、是諸の天人世間の眼なり」等云云。法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候。日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり。されば天もいかり日々に天変あり。地もいかり月々に地夭かさなる。天の帝釈は野干を敬ひて法を習ひしかば、今の教主釈尊となり給ひ、雪山童子は鬼を師とせしかば、今の三界の主となる。大聖・上人は形を賤しみて法を捨てざりけり。今日蓮おろかなりとも野干と鬼とに劣るべからず。当世の人いみじくとも、帝釈・雪山童子に勝るべからず。日蓮が身の賤しきについて巧言を捨てゝ候故に、国既に亡びんとするかなしさよ。又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをも、
 

平成新編御書 ―898㌻―

provided by