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『報恩抄』


(★1022㌻)
 嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて、千劫阿鼻に堕ちぬ。されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも、尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行ひ、朝暮に伝法せしをや。世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども、阿含経をばたわぶれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて、小乗をやぶり給ひき。嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして、五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかうぜじ、弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力の此の経を知るににたりとて、天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるとき、をひまいらせて河をこへ、かうざにちかづきてせなかにのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまいらせ給ひて、小児が母にをくれたるがごとくに、足をすりてなき給ひしなり。嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは、門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か。華厳の澄観も、真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一つとこそかヽれて候へ。嘉祥とがあらば、善無畏三蔵も脱れがたし。
  されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてヽ他国にいたり、殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。しかれども大日経を習ひしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。始めはいたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の獄卒に鉄の縄七つつけられて閻魔王宮にいたりぬ。
 

平成新編御書 ―1022㌻―

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