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『九郎太郎殿御返事』


(★1293㌻)
 はじかみもをひず。ましてやきごめみへ候はず。たといくりなりたりとも、さるのこすべからず。いえのいもはつくる人なし。たといつくりたりとも人にくみてたび候はず。いかにしてか、かゝるたかき山へはきたり候べき。
  それ山をみ候へばたかきよりしだいにしもえくだれり。うみをみ候へばあさきよりしだひにふかし。代をみ候へば三十年・二十年・十年・五年・四・三・二・一と次第にをとろへたり。人の心もかくのごとし。これはよのすへになり候へば、山にはまがれるきのみとゞまり、のにはひきゝくさのみをひたり。よにはかしこき人はすくなく、はかなきものはをほし。牛馬のちゝをしらず、兎羊の母をわきまえざるがごとし。
  仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへになりて智人次第にかくれて、山のくだれるごとく、くさのひきゝににたり。念仏を申し、かいをたもちなんどする人はをゝけれども、法華経をたのむ人はすくなし。星は多けれども大海をてらさず。草は多けれども大内の柱とはならず。念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひる種とは成らず。但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。此を申せば人はそねみて用ひざりしを、故上野殿信じ給ひしによりて仏に成らせ給ひぬ。各々は其の末にて此の御志をとげ給ふか。竜馬につきぬるだには千里をとぶ。松にかゝれるつたは千尋をよづと申すは是か。各々主の御心なり。つちのもちゐを仏に供養せし人は王となりき。法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。その上みひんにしてげにんなし。山河わづらひあり。たとひ心ざしありともあらはしがたきに、いまいろをあらわさせ給ふにしりぬ、をぼろげならぬ事なり。さだめて法華経の十羅刹まぼらせ給ひぬらんとたのもしくこそ候へ。事つくしがたし。恐々謹言。
  十一月一日               日 蓮 花押
 九郎太郎殿御返事
 

平成新編御書 ―1293㌻―

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