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『聖人御難事』


(★1396㌻)
 №0381
     聖人御難事    弘安二年一〇月一日  五八歳
 
  去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。
  法華経に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」云云。釈迦如来の大難はかずをしらず。其の中に、馬の麦をもって九十日、小指の出仏身血、大石の頂にかゝりし、善星比丘等の八人が身は仏の御弟子、心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短をねらいし、無量の釈子の波瑠璃王に殺されし、無量の弟子等がゑい象にふまれし、阿闍世王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり。況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値ひ給はず。法華経の行者ならずといわばいかでか行者にてをはせざるべき。又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあやされず、何に況んや仏に過ぎたる大難なし。経文むなしきがごとし、仏説すでに大虚妄となりぬ。
  而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉五月十二日には伊豆国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる。同じき文永八年辛未九月十二日佐渡国へ配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、くわれう等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・
 

平成新編御書 ―1396㌻―

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