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『聖人御難事』


(★1379㌻)
 天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし。始めはしるしなきやうなれども、今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば、仏前の御誓ひむなしくて、無間大城に堕つべしとをそろしく想ふ間、今は各々はげむらむ。大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるゝは総ばちなり。やくびゃうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり。各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼うるなり。故最明寺殿の日蓮をゆるしゝと此の殿の許しゝは、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許しゝなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては人のざんげんは用ゐ給ふべからず。設ひ大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふゆへに、ばっしがたかるべしと存じ給ふべし。月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。
  我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はをそるゝ心なし。一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ。当時の人々のつくしへ、かさされんずらむ。又ゆく人、又かしこに向かへる人々を、我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげんはかくのごとし。殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん。設へば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず。
 

平成新編御書 ―1379㌻―

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